選手インタビュー

渡辺武弘さん 渡辺武弘さん 卓球 1988年ソウル 1992年バルセロナ

【2つのオリンピックとスランプからの脱出】

高橋:オリンピックに出て自分の中にこう蓄えじゃないですけど、宝、あるいは悔しさみたいなものはありますか?

渡辺:1つね、逆に失敗談があるんですよ。オリンピックに、ソウルでオリンピック、ダブルスだけで代表になれたんですよ。そしたらですね、僕は元々卓球、高校とか大学の頃はまだオリンピックなかったんで、卓球の日本一をとりあえず目指したいなと思って。目標があったんですよ。

高橋:目標が日本一だったんですよね。

渡辺:だったんです。はい。で、その手前でソウルのオリンピック代表になったらものすごく皆さん反応してくれるのね、「オリンピック代表だ、すごい」って。そしたらですね、もうオリンピック代表になった段階でもう一息ついちゃったっていうか、周りが反応してくれるので、「オリンピックすごいよね」って。さも自分がまあもう日本チャンピオンになったみたいな気持ちになって、もうそれからですね、出た後はグワーッと成績が下がったんですよ。で、試合に負けると、「あ、どうせいいや、俺オリンピック代表になったしもういいんだ」って、すり替えちゃったんですよ、目標を。日本一だったのがオリンピックに、代表になれたことが。本当にもうグワーッ。その時はものすごく下がっていくんですよ、もう、成績がグワーッて。それで、だからオリンピック、ソウルとバルセロナの間に4年間あるんですけども、僕は2回出たってすごいね、8年間も頑張ったっていうんですけど、僕は実はガーッて下がってまして。それでもうすごいスランプになって、一説はもう引退、ちょっと引退かなと思う時期があったし、周りからも渡辺は終わったなっていわれた時期があって。だから下手にその時オリンピック出たためにそういう勘違いをしてしまったことが正直あったんですよ。

高橋:なるほど。やっぱり日本代表っていうよりもオリンピック代表の方がウエイトが。

渡辺:やっぱりもうやっぱりすごい、やっぱり、ええ、大会感動して、オリンピックってすごいんだなあって。ま、その時満足しちゃったんですよ。成績は出せなかったんですけど。出れたことがものすごく満足してしまって。

高橋:ソウルの後ずっと落ち込まれて、2年間ぐらいスランプの状態があったということですが、それはバーンアウトとはまた違うんですよね。これだけやったっていうことで、その後ダーッと落ちていく。何か満足してしまう。燃え尽きてしまう。

渡辺:燃え尽きちゃいなったんですけど。僕はもう満足しちゃって、何か。

高橋:あ、満足しちゃった自分の中で。

渡辺:ええ。オリンピック代表になっただけで満足しちゃって、ちょっとやはり気持ちがだんだん少し薄らいで来てたのかも知れないですね。

高橋:ご自身で引退を考えたことはあるんですか?

渡辺:ああ。もうその頃は。

高橋:周りの方おっしゃって。

渡辺:いや、自分でもう。26でソウル出て、28ぐらいが2年間ですね。で、もう、当時やっぱりちょっと年齢が上がってきてましたんで、今は結構皆さんやってますけど、当時はもう少しベテランの域に来てましたんで。ああ、もうそろそろ体力も落ちてきてるし、もう成績が振るわなくなってきてたから、そろそろもう国内でちょろちょろやって終わりかなっていうような気持ちになり始めていたんですよね。周りからも渡辺終わったなっていう感じで言われ始めてましたんで。

高橋:でもそれからガーッと上がられたんですよね。平成3年にシングルス優勝されて。で、バルセロナですよね。

渡辺:それはね、2つ、3つ理由があって。1つは今卓球っていうのは松下っていうプロになっている第一号の選手がいるんですけど。彼が丁度私の、まあ、大学の後輩、ま、入れ替わりですけど。彼双子なんです。松下兄弟って双子で。もう学生のときに日本のトップクラスになっていて、その二人が丁度うちの協和発酵に入社してくるってことになったんですよ。で、僕はその頃松下達より全日本成績下で、ま、彼らが入ってくるからにはって、彼らを協和発酵に入って強くさせてあげたいですからね、もっともっと。だもんで、とにかく彼らの練習相手を自分がちゃんとできないといけないなと言うふうに思いまして。じゃ、やっぱりもう1回僕もトレーニングして身体を鍛えて、やっぱりいい練習相手にしなくちゃいけない。一つ、それが刺激になっていますね。彼らの練習相手をちゃんとするために。

高橋:本当にいい人。

渡辺:いやいや、本当に思ってたんですよ、本当に。で、2人にね、やはり。で、というのはまあ、その彼らはどこの企業も争奪戦で欲しい選手だったですから。で、まあ、協和に来てくれてやっぱり潰されたら、潰れたら困るということで、世界に出さないといけないということで。それとあと、まあ、丁度結婚をしたんですよ。

高橋:あ、そうなんですか。

渡辺:そうですね。僕は結婚は日本一になるまでしないって密かに実は決めてたんですけど。

高橋:あ、そうなんですかぁ。

渡辺:決めてたんですけど、でも、ずっと今の彼女と付き合っていたんですよね。で、もう、あれっ?これじゃ日本一にならないなと思って。

高橋:やだ、そんな。

渡辺:もう結婚できないと本当に思ったんですね。だって。

高橋:あ、でもすごく落ち込んでた時だから。

渡辺:そう、もう引退を考えるぐらいですから。もう日本一なれないじゃないですか。そしたらもう結婚できないわけですから。ああ、もうこのままじゃ結婚できないなと思って。じゃ、もう妥協して結婚、妥協って変ですけど、ね。ずっと付き合ってましたんで。それでもう結婚しなきゃいけないなって。年齢も年齢になってましたんで。家内も私の1コしたなんで。で、まあその時結婚もしたんですね。

高橋:奥様はその日本一にならなければ結婚しないっていう渡辺さんの決意は知っていらしたんですか?

渡辺:どうなんですかね。それは分かりませんね。僕は本人には言ってなかったかも知れないです。本心はやっぱり、うん、一花挙げてから結婚したいって何か変に学生の頃からそういう気持ちを持ってまして。

高橋:ああ、そうですか。

渡辺:それでまあ、でももう、日本一になれないなと思って。

高橋:プロポーズを。

渡辺:ええ、たぶん。で、やはり伴侶を得たんで、やっぱりもう一花挙げたいなってちょっと思って。

高橋:頑張んなきゃって。

渡辺:まあちょっと気持ちが少しまた前向きになってきましたんですよ。

高橋:すると、スランプを脱出されて、シングルスで優勝できたのはご結婚ともう1つその松下選手が入社されるという2つの切っ掛けが。

渡辺:それは大きかったんだと思いますね。それからは人生の中で一番、卓球の長い人生で一番頑張りました。

高橋:でも日本一になられたということは、松下選手を抜いてしまったということですよね?

渡辺:ええとですね。その、優勝した時は松下選手とは直接対決は無かったんですけども。そうですね。松下はまあ、それとは別、そうですね。実際彼らはあのうすごく期待されてもう国際大会にも出たんですけど、なかなか国内の大会では優勝したりとかはちょっと足踏みしてたんですね、3位とかで。足踏みしてて。で、そう、私の方が先に。

高橋:練習相手に。

渡辺:そうなんです。

高橋:渡辺さんが一生懸命やられてそれで、気が付いたら抜いてしまったという。

渡辺:そうなんです。

高橋:すごいですよね。

渡辺:いや、すごいって言うか、まあ、本当に、そういう状況。

高橋:そういう欲の無いところがやっぱり強さなのかなと思ったりするんですけど。なんかこう目の色を変えてがむしゃらに、あいつを負かすんだというよりも、むしろこう自然体で人のために何かをやろうという、そして気がついたら自分が…。

渡辺:まあ、僕自身がその誰かを、さっき言ったように打ち負かそうとかそういうことは今まであんまり、確かに。だから自分が、ま、考えているものとか持っている技量とかは別で。まあ、自分も技は極めて行きたいっていうのは一番根本にあるんですよね。例えば遠征に行ったら中国人がこういう技術やったら自分はこういう技術を取り入れてやれたらいいなとかですね。まあそういう技の追求とかプレーの追及はちょっとしてきたつもりなんですけど。誰かを負かそうとかいうのは、あんまりそういう発想にはなったことが無かったんですよね。だからちょっと貪欲さが無いって言われてたのかも知れないんですね。

高橋:でも自分の技を磨いていこうという貪欲さはあったわけですから。

渡辺:ですね、はい。向上したいっていうのはすごくやっぱりありましたですね。

高橋:やっぱりそちらの方が最終的な強さになるんじゃないかなって思うんですけど。ソウルオリンピックに出た時に何かもうすごくその上を行ってしまったというお気持ちがあったじゃないですか。でも、シングルスでまた優勝された時というのはどういうお気持ちですか?

渡辺:うーんと、シングルで優勝した時は、うーん。気持ちとしてはどうだろうか。一番嬉しかったのはその1回自分はこうグーッと下がって、またこう上がれて、自分はこう2年間やってきた、積み上げたことが本当に成果となって現れて、なおかつさっき言った人がいいとは言われたのがですね、全日本で優勝する前は自分で解消されたんですよ。というのはある人と話・・、先輩と話してて、あのう、何かそういう話たぶんしたと思うんですよ。で、そういうの拘らなくていいじゃないって言われたんですよ。渡辺は渡辺らしく、いいんだよって。そのままで良いんだよって。何かの時に先輩に言われたんですよ。それがすごくですね、そうかまあ性格は確かに変えられないかもなと。逆にだから自分でもまあ真面目さとかですね、取り組みしてとか、そういうの、逆に人より極めていこうとっていうか、何か、そういう自分をもっと逆に出していけばいいんだと。下手に自分を作ろうとせずに自分の自然体で、逆に自然体でもっと行こうっていうような。だから、そういう意味では少し吹っ切れた部分もあって。で、さっき言った2年間の練習の積み重ねがその全日本、2年後の全日本で。で、僕はその前に2回決勝戦で負けているんですよ。全日本選手権。3回目だったんですよ、その時にね。2回負けたときもやっぱり自分は、やっぱり2位までかと。やっぱり1位、表彰台の1位に乗るのはやっぱり一流選手とか、2位は二流だなと。1位と2位の差はとてつもなくこういうふうに天と地ぐらいにやっぱり差がある。当然ありますよね、勝負の世界って。やっぱりこの1位っていうこの、要するに拘りがそのときにあって、で、そのやってきたものが1位として成果が出たことがもう、あ、自分が、その時だから卓球をやって中3とかで、代表になって17年か。17年間やってきた、それで精神的に苦しんだこととか、17年間やってきたことが、まあ一応全日本チャンピオンに行くまでには、結果が出たんでね、間違ってなかったんだなと。まあ、回り道はいろいろしたかもしれないですが。それを、そういう意味の達成感は、その全日本の時はものすごく感じましたね。いや、おまけにその次、バルセロナ予選会があったんです。数週間後あったんですけど。で、そっちの方は、予選通って、結局日本一とバルセロナ代表になれて、いや2つもこれ、自分ではその、2つ取れたらいいなと思って、2つも取れる、代表も取れたということでものすごく嬉しかったですね。その時は。無茶苦茶。

高橋:嬉しかったと同時にバルセロナに出て行くときはプレッシャーもあったと思うんですが…。

渡辺:ああ、もう、そうですね。はい。さっき言ったように、日本一として本当に行くんで、ま、簡単に、変な試合できないなって言われました。ま、少しでも勝ちたいなと思いましたですね。

高橋:ソウルの時よりも欲が出てきたということは?

渡辺:ええ、ソウルの時は先輩と一緒だったということもありますし、バルセロナの時はさっき言った松下選手とか他のメンバーは僕より年下だっていうのがありましたんで。一応僕主将みたいになってたんで。

高橋:ああ、なるほど。

渡辺:うん。すごくやっぱり。

高橋:責任もあったんですね。

渡辺:責任をちょっと感じましたですね。ただ、国際大会を見たら松下とかのほうがランキング僕より上だったんで、彼らの方が勝つ可能性は高かったんですよ、正直いって。彼らも頑張って欲しいなと思いつつ。

高橋:また、そこで人のよさが。

渡辺:主将としては。主将としては彼らが本当に上に行ってほしいなって密かに思ってましたけど。

高橋:そうするとバルセロナは自分が勝つというだけじゃなくて、日本代表選手の、ま、キャプテンとして、責任というのがあったことから、日本代表という1つプレッシャーというか意識が出てきたということですかね?

渡辺:そうですね。はい。

高橋:そうするとオリンピックに対する見方もソウルとバルセロナとでは違いますか?

渡辺:うん。やっぱりソウル、だから、ソウルの方は出てもう一生懸命やればいいやと思ったけど、バルセロナの時はやっぱり勝ちたいなと思いましたですね。やっぱり欲がぐっと出てましたですね。バルセロナの方が。はい。

高橋:それでは、バルセロナオリンピックは渡辺さんにとってどういう意味があったと思いますか?

渡辺:私もうその時30だったんで、もうこれはもう最後だ、最後のチャンスだと思っていましたので、そういう意味では自分の集大成っていうような意味合いがありましたですね。ええ。

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