選手インタビュー

平松純子さん 平松純子さん フィギュアスケート 1960年スコーバレー 1964年インスブルック

【選手をサポートし、育てていく仕事】

広報スタッフ:IFにもっと関わっていく人が増えていくということは、どういう意味を持ちますか?

平松:それはもう絶対に必要ですよね、国際化の中で。そういうことがいろんな、IFに出ていって日本の存在感というか、日本の選手を違った意味からサポートできることになると思うんです。助けになると思うのよね。

広報スタッフ:選手を育てるということは、直接教えるコーチばかりにイメージが行くんですけど、そうではなくていろんな人がいるんだなと今回教えられました。

平松:いろんな角度の人が、それはもうJOCの理事に入らせていただくと本当にわかるんだけれども、もっと大きいところでいろんな…今ドーピング問題とかもあって、情報がいりますよね。いろんな角度からの組織がしっかりすることによって選手の力がより出せるようになるっていうか、みんなで支えて…コーチだけの問題ではないですよね。

広報スタッフ:今のお仕事の中で一つ、神戸薬科大学で生涯スポーツを教えておられますが、また違ったスポーツに関するお仕事もしてらっしゃるんですね。

平松:大学は薬剤師を目指してる学生相手なので、将来は人の健康に直接関わる仕事ですよね、医者ではないけれどお薬のことに関わるわけで。それと、どんな仕事であれ、まず健康ってことが基本だと思いますから、トータルに自分自身も健康でいるためにということを含め、ずっとスポーツにいろんな形で関わってほしいということでやってます。

広報スタッフ:人にとってのスポーツの大切さ、ですね。

平松:私も授業を通じてね、スポーツというのはどんなに素晴らしいかって…自分の健康を守るだけじゃなくて、精神的にもすごく気分転換になるでしょ、スポーツすることによって。開放感とか人とのコミュニケーションもできますし、違った人間関係もできますし、そういういろんな面でスポーツっていうのは人間形成の中で大切ですね。私自身がスポーツを通じて育てられたと思ってますから。スポーツといってもあまりにも範囲は広いんだけれども、どんな年代の人にもすごく大事なもの。今はお年寄りが元気になってきて長生きですから、そういう健康な老後を過ごすためにも若い時からの積み重ねというか、そのへんの意識の問題だと思うんですね。

広報スタッフ:後に続く方々への道を切り開いてこられた平松さんですが…

平松:いやそんなに大したものじゃないですよ(笑)。ただ、いろんなチャンスをいただいてきたっていうか。練習でサマースクールに行ったことがまず国際的にすごく、日本の中の目だけじゃダメだと、世界はすごく広くて、いろんな考えの連盟や方法があるんだってことがわかったし、結婚して海外住まいをしたことで、そこで子育て経験を通じ、いろんな機会を前向きにとらえてやってこられたと思う、そういうことも良かったですよね。

広報スタッフ:オリンピックという大きな舞台を選手として経験された方々が、引退後の人生をどう過ごしていくかっていうことは、それぞれの道はあるとは思うんですけれども、今回のトリノ大会で新しくオリンピアンになられた方々がたくさんいらっしゃいます。そういう方々に今、何かアドバイスをされるとしたらどういうことを言ってあげたいですか?

平松:そうですね、オリンピックに出たというのは、やっぱり選ばれた人だと思うんですよ。それなりに努力して代表になって出て、やっぱりオリンピックに出たという誇りは一生ついてまわると思うのね、誇りというか自分がそういうことをやった、達成したっていうのは。それはそれと割り切る人もいるかもしれないですけれど、それは大きな人生の糧になると思うので、それをいかに生かしていくか…みなさんそれを糧にいろんな道を歩まれると思うんでね。

広報スタッフ:本当に、普通の人間では経験できないようなことを経験されてますし、当然そこまでの努力というのも大きいと思うんですけれど、その特別な経験を次の人生にうまく、プラスに生かしてほしいなということですね。

平松:そうですね、多分みなさんそうだと思うんですけれど、それによって与えられるチャンスというものがあると思うので、来るチャンスをね、うまく生かしてほしいなと。それはもう努力しだいというかな、チャンスっていうのは来ないかもしれないけれど、今まで挑戦した気持ちっていうか、やっぱり私は挑戦だと思うんですよね、受け身だけじゃない、挑戦の気持ちというのがみんなあるから、それはオリンピックが終わっても、みんな絶対持ち続けると思うんですよね。それがどういう方向への挑戦になるのか、ですけどね。私は、貪欲な挑戦というものがどんどん人生を切り開いていくと思いますね。

広報スタッフ:チャンスをチャンスと感じられるかどうかというのも、大きいですよね。感受性の問題でもあるかもしれない。

平松:そうそう、そこなのよね。チャンスと取れるか、人によってはそれを取らない人もいるかもしれないし。

広報スタッフ:それを生かしてこられた平松さんなので、短時間ではお聞きし切れないほどの人生で本当に勉強になりました。

平松:いえいえ、私なんかそんな大した選手じゃなかったし。いろんな面で、まだ女子が少ない時代で、そういう意味ではすごくアンラッキーなとこもあったけど、むしろラッキーのほうが、私の場合は多かったかなという気はします。

広報スタッフ:女性がオリンピックにどんどん出ていくという意味では初期の頃で、それで辛いこともあったでしょうし、でもパイオニアにもなった。

平松:時代の流れの中でね…女性だから得をしたと言ったら差別みたいになっちゃうけれど、女性だったからっていうのはいろいろありましたね。でもやはり、女性はすごくハンディがあるなと思うこともありますね。

広報スタッフ:オリンピックの成績としてはあまり…とおっしゃいますけど、平松さんの時代があって日本のフィギュアのレベルが上がってきたんだと思います。

平松:そこで世界を見てすごいと思って、じゃあ世界を目指して、前を見るわけですよね。それでも、今のように映像やインターネットで直に全部わかるという時代じゃないから、時間はかかったけれども、その前は前で、私の前の方たちがもっと苦労されていったものを教えてくださったわけですから、それはずうっとつながりの結果ですよね。それはどのスポーツでもそうですし、スポーツだけでなくて学問であれどんな分野であれ、それなしには語れないわけですからね。

広報スタッフ:それで順々にバトンをつないでこられたものが、トリノでは金メダルという結果になって。

平松:そう、金にね。本当にそうですね。

広報スタッフ:最後に、審判員の仕事をされていて醍醐味というのは、どういうところにありますか?

平松:醍醐味といえばやっぱり世界一、オリンピックチャンピオンを決める…私たちは採点競技ですから、そういう採点する現場に関われるということ、世界一を選ぶんだというところは醍醐味ですよね。それともう一つ、審判員として私が大切だといつも思っているのが、ルールが変わっていくのに伴って技術もレベルアップしてきたわけですから、審判員がルールに基づいた正しいジャッジングをすることによって選手を正しく方向づける、その役目をしてると思う。そういう意味で、審判員の責任というのは一人ずつが非常に負わされてるなといつも思ってますから。一人ひとりの審判員がルールに忠実に誠実なジャッジングをしていくことによって、教える先生とは別角度から、正しく評価するっていうことで選手をそういう方向にもっていく役目があると思ってます。

広報スタッフ:一つの意味で、選手を育てる役割を担っているということですね。これからも頑張ってください。ありがとうございました。

~平松純子さんインタビュー 完~
(編集:広報スタッフ)
取材協力:神戸ポートピアホテル

ゲストプロフィール

平松純子さん
平松 純子(ひらまつ じゅんこ)(旧姓:うえの)
1942年11月1日生まれ。兵庫県出身。日本オリンピック委員会理事、日本オリンピアンズ協会常務理事、国際スケート連盟フィギュア技術委員、神戸薬科大学教授、兵庫県体育協会副会長、神戸市教育委員会教育委員。
小学校4年生でスケートを始め、1956年から4年連続を含み全日本選手権で5回優勝。1960年スコーバレー、1964年インスブルック両オリンピックに出場。スコーバレー大会では日本女子選手初の旗手を務める。現役引退後は国際審判員として活躍、1988年長野大会では審判員宣誓を行い、トリノ大会でもペア競技の技術役員を務めた。
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