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- オリンピアンインタビュー
- 第22回 脇田寿雄さん
【自国でのオリンピックを競技人生の集大成に】
元川:リレハンメル大会は2年間隔になったではないですか。そこから、長野大会への準備は何年ほど前からやっていたのですか。
脇田:公募は毎年していましたから、リレハンメルが終わってすぐですね。当時、十種競技の日本記録を持っていた選手などが公募で受けにきて、選ばれたりしました。長野オリンピックが決まってからは、当然、強化費もあったので、ナショナルチームとしてきちんと遠征に行って、ワールドカップの第1戦から出ました。アルベールビルあたりから、ワールドカップでポイントを取らないとオリンピックに出られないシステムになったので、長野オリンピック開催が決まってからはワールドカップの1戦からずっと出ていました。
元川:それで、ご自分の中では長野オリンピックを集大成にしようという気持ちがあったのですか。年齢的には33歳ぐらいですね。
脇田:さんさんと輝く33歳になる予定だったのですが、散々な33でした。
元川:ご自分の中では4回出るのを最後にするという気持ちでやっていたのですか。
脇田:正直言うと、次のオリンピックも、出ようと思えば多分、レベルからすると出られたのです。でも、これは昔から母から言われていたことで、この競技でずっとご飯を食べていくわけではないので、ゆくゆくは仕事をしなければいけないではない。そう思って私はすっぱり自分で踏ん切りをつけたし、きちんとマスコミの人にも言いました。たまたま「脇田引退」と載せてくれる新聞が当時あったのです。当時、一つの鍵になったのは、長野オリンピックに出たときの会社は東京美装で、その会長は当時のJOC会長の八木祐四郎です。それで、きっぱりと競技はやめて仕事をして恩返しをしようと思ったので、長野でやめるということは決めていました。
元川:そのためにも、自分の中で納得できる4年間にしたいという気持ちがすごく強かったと思うのですが、どんな対策をして最後のオリンピックに臨んだのですか。
脇田:まず、やれるだけの準備はやっておこうと思ったし、あとは本当に集大成ですから、悔いのないようにだけやろうと思いました。私だけではなく会社もそうですし、チームメートが支えてくれていたので、試合のときは少し緊張したかもしれませんが、何か心地よいオリンピックを迎えました。本当にそこはチームメートに感謝ですね。
元川:でも、長野ということで、盛り上がりがすごかったと思うのです。国内のオリンピックで行進するのは別物だという話をされていましたが、何か特別な思いはありましたか。
脇田:特別な思いというか、チームを支えてくれる人たちがいるのが一つと、自国開催ですから、街を歩いていてもみんなが応援してくれるわけですよ。だからそれは本当に力になって、競技はマイナーですが、少しでもいい成績を取ることによってその人たちに恩返しできると思いましたし、笑い話ですが、当時、八木祐四郎が言ったのは「脇田君、そんなに気合い入れて頑張らなくてもいいから、リラックスしてやりなよ。メダルはスキーやスケートが取ってくれるから」と(笑)。リラックスさせるつもりでもあったのでしょうが、本当に恵まれた環境でした。
元川:長野のときのコースは滑り慣れていたというか、ホームだったので練習を何回もやっていたわけですよね。
脇田:もちろんです。
元川:最初の50mの重要性はもちろんとして、それ以外のコースの特性などをどう攻略していこうというのがあったのですか。
脇田:当時、初めて上りのコースができたところなのです。あとはどのコースでも同じなのですが、カーブの形状が違うので、どうやって入ってどうやって滑ってどうやって出ようかということしか考えないんです。
元川:その癖を、自分の体に染み込ませたということですか。
脇田:言葉では言いにくいのですが、氷の世界に自分でラインを引くのです。私たちにはその線が見えるのです。車の世界でも同じだと思うのですが、ここを通らなければいけないという線があって、それを毎回、試合のときもその線の上を滑るようにトレーニングで努力するわけです。だから、その線を滑り込んで、組み立てていくのです。
元川:後からビデオなどを見たりして、どこの辺りが膨らんでいるからもう少し中側にラインを取って、というようなことをするのですね。
竹下:脇田:おっしゃるとおりです。見るのと、あとは氷を削っていないか、音を聞いてもらうのです。同じコースでも、氷を削って強引にそのコースを通しては駄目なのです。例えば、スピードスケートでは途中で失敗しても自分の足で加速できるではないですか。でも、ボブスレーは自分で加速できないですから。そういう難しさがあるので、いかに氷を削らないで最短距離を滑るかというのがボブスレーの秘訣なのです。ボブスレーの場合、スケルトンも同じですが、滑る前には必ずコースインスペクションをするわけです。コースウォーキングとか言いますが、コースの中を実際に歩いて、このカーブはどこを通っていこうかと最後のカーブからずっと組み立てていって、上に行ってウォーミングアップをして、またイメージを作るんです。
元川:長野では4人乗りだけ出たのですね。
脇田:そうです。なぜかというと、ナショナルチームでは私が一番走りが遅いので、4人乗りに専念したのです。
元川:長野のときは、直前の準備、盛り上げ、精神的な部分のコントロールなどはうまくいったのですか。
脇田:うまくいきましたよ。ではなぜ成績が悪かったのかというと、私の順番の少し前から雨が降ってきたのです。それは仕方がないですよね。1本目の成績が悪いと2本目の滑走順が悪くなるのです。そこで私のボブスレー生活は終わってしまったかなという感じです。
元川:1本目がうまくいかなかった。
脇田:キーでしたね。
元川:4本滑るわけですよね。
脇田:雨が降ってきたので、初日の2本目は中止になって、長野は3本勝負になったのです。雨が降って中止になるなら最初からやめてくれよという感じなのですが、そうはいかない。競技人生の中で心残りというと、唯一、それだけです。
元川:1本目を失敗して、2本目が中止になってしまったと。
脇田:失敗ではないのですが、雨が降ってくるとソリが滑らないんです。だから、私の少し前から後の人たちは、成績がよくなかった。後に行けば行くほどコースが濡れてくるので。そこが冬の競技のよくないところというか、自然との戦いでもあるのでどうしようもないですね。ただ、これは言い訳ではなくて、それも実力です。結果がすべてなので。本当についてなかったけれど、青戸(慎司)は陸上でもオリンピックに出ているし、当時4継(400mリレー)で入賞もしていたので、青戸には入賞させてやりたかったですね。