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- オリンピアンインタビュー
- 第22回 脇田寿雄さん
【初出場の達成感とさらなる欲望】
元川:そうしてオリンピックに出るわけですが、その時点では日本のボブスレーのレベルは、ほかの国に比べると少し低いという感じだったわけですか。
脇田:当時はそうで、カルガリーは真ん中辺ですね。サラエボで惨敗していたので。サラエボの成績は下から2番目ぐらいだったのではないですか。カルガリーはコースが簡単だと思いましたし、暖かい国の人たちも参加していたので40チームぐらい出ていましたが、カルガリーではもっと少なかったと思います。
元川:そこで、2人乗りは20位になられたということですね。ちょうど真ん中辺ぐらいの20位という順位は、目標にしていた順位に比べると良かったのですか、悪かったのですか。
脇田:正直、10位台の前半は目指していたのではないですか。この競技は、番狂わせがほとんどないのです。
元川:このときはどの辺が強かったのですか。
脇田:当時はやはり東ドイツですね。あまり強く言うと言い訳に聞こえてしまうのですが、ボブスレーの場合には乗り物を使うので、これがやはり大きいですね。
元川:大きいという意味はどういうことですか。
脇田:どういうものを使っているか。例えば、陸上競技ではハンマーならハンマー、円盤なら円盤に規格があって、試合ではそれしか使わないのですが、ボブスレーはF1の世界と同じで、レギュレーションは決まっていますが、すべて同じかというとそうではない。強いところは研究開発していいものを使えるということで。言ってみれば、強くても乗り物が駄目だと難しいのです。
元川:ソリに対する技術に、ドイツは力を入れていたということですね。
脇田:カルガリーの後に一番思ったのは、やはりボブスレーをやっている以上はソリを操作しないと面白くないわけですよ。後ろだと、ただ人に乗せられて最初だけ押して、最後にブレーキをかけたら終わりなのです。それよりも、一つひとつのカーブをどうやって攻めて下まで滑るかという楽しみ、つまりパイロットのポジションをやらなければいけないと思ったのです。それで、カルガリーに一緒に出た竹脇(直巳)と一緒に、2人ともパイロットになろうと決心しました。
元川:その竹脇さんも、カルガリーでは後ろから押す側だったということですね。
脇田:そうです。それで、そのとき勤めていた会社に理解してもらって、2人で、格好良くく言えば武者修行に出たわけです。自分たちでお金を出して海外に行って、宿泊場所などを探して、自分たちのなけなしのお金で、彼も私も自分でソリを1台ずつ買ったのです。当時、200万円くらいしました。恵まれていたのは、会社が競技をすることを認めてくれていたので、その間も給料もきちんともらえたのです。イタリアでソリを買って、ドイツのコースで滑れることになりました。2人がパイロットなので交代にやるわけですが、最初だから転ぶんです。誰も日本のコーチは行っていないので、地元の選手やコーチに聞いて、転びながらも2人で切磋琢磨してある程度の技術を習得して、カルガリーオリンピックの翌シーズンも2人で行って、そこから2人はずっと長野まで、同じチームですがライバルでした。
元川:つまり、竹脇さんとは常にライバルとしてやってきたけれども、仲間として強い絆で結ばれているわけですね。
脇田:強い絆もあるし、ライバルですからね。これも特有ですね、ナショナルチームの編成上、ナショナルチームですがお互いいつも戦っているというのは、ほかの競技ではあまりないですよね。
元川:自分でお金を出して武者修行に行って、ソリも買って強化した結果、アルベールビルには実力が上がった状態で出られたのですか。
脇田:そうですね。私が言うと変ですが、時間もかけて自分たちで投資をして、いろいろな海外の選手に教えてもらったのが大きいと思うんです。今まで日本チームが、下手をすると4~5年かかっていたところを、1年でやってしまったと思うのです。そんなに甘くはないと思うのですが、たまたま私と竹脇はラッキーで、うまく外国の選手の技術を吸収して自分の滑りにできたということがあったので、翌年には夜久さんに勝てたし、世界選手権も出られたし、アルベールビルオリンピックはパイロットで出て、夜久さんの成績は抜いたのではないかと思います。
元川:念願のパイロットで出ることができた。しかも順位は1個上げて19位になったということですが、19位は不本意ですか?
脇田:やはり結果はそんなものですね。もう少し上へ行ってもおかしくないのですが、そこは私の能力のなさだと思います。
元川:世界選手権などを含めて、世界大会での最高順位は何位なのですか。
脇田:日本チームでは、札幌オリンピックの12位が一番いいのではないですか。多分それが最高だと思います。長野では竹脇に負けて、竹脇が15位、私が16位でした(いずれも4人乗りの成績)。
元川:2回目はパイロットで出た19位でしたから、前回より価値があると自分の中で思えましたか。
脇田:そうですね。それと同時に、試合のときにスプリントタイムが上がらなかったので、少し悔しさは残った試合ですね。
元川:最初が難しいのですね。押しながら、スムーズに乗ったあげくにしっかり加速できるかどうかというのが、ボブスレーの一番難しいポイントだと。
脇田:本当のポイントは、乗り込む動作もありますが、やはり50mのタイムをいかに速く押すかなのです。下手をしたらそこで半分決まってしまいます。
元川:1,300mの中の、最初の50m。短いけれど、そこが生命線だと。
脇田:そうなんです。コースも同じコースはないので、短いコースは1,200mから、長いコースは1,700mぐらいあります。高低差も場所によってまちまちです。スケルトンもリュージュも同じで、最初が遅いと、ある程度は見えてしまいますね。
元川:そうなると、次の目標としては50mをいかに速く走るか、その後のオリンピックはそこを突き詰めていくような感じになりますよね。そうしないとタイムが上がらないわけでしょう。その後の2大会というのは、そこの戦いだったのですか。
脇田:全くそのとおりです。私もそうですし、ナショナルチームとしてもそうです。長野のときは、そうそうたるメンバーというと変ですが、室伏広治も一緒にやっていたのを知っていますか? 1カ月ぐらい長野で一緒に合宿していたんです。彼が出てくれていればもっといい成績だったことは間違いなかったのですが、やはり(投てき競技の)投げ込みをしなければいけないので、最終的には長野オリンピックは出なかったのです。私の後ろに乗って、ブレーカーをやってくれていたんですよ。
元川:やはり彼がいると速かったですか。
脇田:私はみんなに言うのですが、冒頭に話をしたように、日本のアスリートの中で走るのと、ジャンプするのと、力という三拍子そろうナンバーワンは、多分、彼ですよ。彼を超える人を私は見たことないですし、力があっても彼ほど速く走れません。
元川:それだけの選手がブレーカーをやってくれれば、ボブスレーの記録は上がっただろうという話ですね。
脇田:はい。外国にはああいう選手が多いのですよ。