- トップページ
- オリンピアンインタビュー
- 第16回 黒岩彰さん
【1レースにピークを合わせる難しさ】
広報スタッフ:4年に1回のあの1レースにピークを合わせるということは、本当に難しいのですね。黒岩さんにとっての初めてのオリンピックの印象は、孤独感とか悔しさでしょうか。
黒岩:ただね、その時僕が思ったのは、やるべきことはやってきた思うんですよ。技術的な部分は徹底的に技術トレーニングをしてきてるし、体力面でも絶対に負けないだけの体力はつけてきている。自分に足りなかったものは、そういう場面に出くわした時に自己コントロールできる精神的な部分なのではないかということで、今度はイメージトレーニング、メンタルトレーニングというものを取り入れたんです。
広報スタッフ:そのあたりの理論が出てくるのは、まだ後ですよね。
黒岩:まだあの頃、イメージトレーニングはなかったですよね。まずイメージをするために自分の体をリラックスさせて、頭の中を無の状態にさせた所に、イメージ的なものを取り入れていくということをずっと4年間やりましたね。
広報スタッフ:サラエボのオリンピックが4年生の2月ですよね。また次のオリンピックを目指すかどうかの判断がまずあるのと、大学を卒業した後の指導者は変わったのですか。
黒岩:次のオリンピックも目指すつもりで3年生の時から動いていて、コクドに堤義明さんを直接訪ねて「スケートをやらせて下さい」って言って、入社が決まりました。コクドにはスピードスケート部はなくて、「お前一人だぞ、練習はお前の好きなところでやっていいよ」と言われたので、専修大学で練習させてもらって、最後の2年間は一人で海外生活でした。社会人3年目の時にはドイツをベースに世界中を移動したり、カルガリーオリンピックの年はカルガリーを拠点にヨーロッパへ行ったり。飛行機もホテルも大会申込も全部自分で手配していたから、勉強になりました。
広報スタッフ:スケートという競技は、リンクの上の練習は言ってみれば1年の1/3くらいですよね。
黒岩:そうですね。4月から10月までの陸トレの期間が一番きつい時期で、当時は氷は地方にいかないとなかったから、10月の半ばくらいから長野で滑って、11月に入ったら盛岡へ移動して、だんだん北にいくんですよ。氷のあるところで12月から大会が始まって、1月の頭で全日本選手権で選考会をやって。
広報スタッフ:カルガリーまでの4年間は、自分の中では納得のいった積み重ねでしたか。
黒岩:サラエボまでの4年間、カルガリーまでの4年間、4年スパンで全てを考えていったっていう感じはありますね。だから、本当に自分でやるべきことはやってカルガリーオリンピックに臨めました。カルガリーの500mのスタートラインについた時も、もう自分では100%のことをやってきたと。この俺を抜く人がいたら、僕は心から祝福してあげたいと思って、スタートラインにつきましたからね。イメージトレーニングで、何かあった時にも、冷静で動揺することなく自分の力を発揮することを最大の目的にしていました。
広報スタッフ:実際、30数秒のカルガリーのレースというのは、どうだったんですか。
黒岩:今思い出してもね、自分で滑ってる、自分の内面から見てる光景っていうのは覚えてますよ。スローモーション的に覚えてます。20数年も経ってるけどね。
広報スタッフ:レースが終わった時は、納得はいきましたか。
黒岩:もう完璧なレースの完璧な滑り、タイムも自己ベストでした。もうこれ以上のことはできないなと思って。だけど滑った時点で3位でしょ。これでもし誰か上に入ったら、俺は本当にメダルに縁のない人間かな…なんて思いながら、ずーっとレースが終わるまで、インコースで流してた記憶がありますよね。で、最終組が終わった時に、あぁ3位獲得できたなあって。
【自分の努力で引き出した能力】
広報スタッフ:黒岩さんの500mのご自分の記録は、そのカルガリーオリンピックでのレースがベストなんですよね。順位で見た時に、3位という結果に関しては正直どう思われましたか。
黒岩:もう満足。スタートする前に思ったように、上の2人に関しては、僕も努力したけども僕以上に努力したんだなっていうふうな、そういう気持ちで思いっ切り祝福できたしね。それと大学卒業した頃かな、ノートに書いてあるんだけれども、僕は昭和36年9月6日生まれなんですよ。それで、36秒96までは自分の親にもらった力だと考えていた。それはその当時で言えば世界記録だったんです。その時の世界記録は37秒00で、これが十何年間破られていなかったんですよね。だから、その上へ行って初めて自分の努力だって、そういうことがノートに書いてあるんです。語呂合わせ、その頃からしてたんだよね。
広報スタッフ:カルガリーの記録は…。
黒岩:36秒77。自分で努力した分だなあっていう、そういう満足感はすごくありましたね。
広報スタッフ:そうですか。それでは、一言で難しいかもしれませんけれど、ご自分にとってオリンピックって何だろうと思われますか。
黒岩:何だろうねえ、オリンピックって一言で言ったら、自分を鍛えさせてもらった、オリンピックがあったから、自分が努力することを覚えたということでしょうか。素質があったからスケートをやったわけじゃないんです。自分の中に秘めた力を、自分の努力で引き出すことができたんじゃないかなって。素質があるからやるとか、素質がないから辞めるとかよく言うけれども、お前まだ頑張ることもやってないだろうって、やっぱり思うじゃないですか。
広報スタッフ:黒岩さんのお話を聞いていると、指導者にもすごく向いていると思うのですが、カルガリーが終わって、あと現役をどれくらい続けるかということもお考えになりましたか。
黒岩:カルガリーオリンピックが終わった時に、4年後、自分は次のオリンピックには行けるかもしれないけども、メダルを狙うレベルで本当に戦ってるかなっていうような疑問があったんですよ。メダルという目標を避けてスケートに携わっていることが、自分には許せなかったっていうかね。またやるのであれば、まだ残ってる金メダル・銀メダルを狙えるレベルでないのであれば、もうやめたほうがいいかなって。で、引退する覚悟を決めたんです。メダルに関しては、狙う選手を作りたいって…。
広報スタッフ:やはり、そういう思いになったんですね。
黒岩:そうそう。だから僕のスケート人生っていうものを語らせてもらうと、現役をやってきて、現役を引退するところでちょうど半分だと。あとは指導者でそういう選手をつくって、ようやくスケートってものが完成するんじゃないかなっていう気持ちになって、指導者を引き受けました。11年間、長野オリンピックまでやって、その間に堀井学がリレハンメルで銅メダルを取って、白幡圭史が世界選手権で3位になってるしね。長野オリンピックが終わった時に、スケート界もいい形で一つになったなと感じたので、そろそろ僕も一回スケート界から身を引こうかなって思ったんです。