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- オリンピアンインタビュー
- 第16回 黒岩彰さん
【世界チャンピオンとなってサラエボへ】
広報スタッフ:専修大学自体は、スケートのレベルとしては2部だったんですか。
黒岩:僕の上の人が1部に上げたので、僕が入った時にはもう1部でした。それで、その年にインカレで初めて総合優勝したんです。僕が1年の時には500mも1500mもリレーも全部優勝して、その他のメンバーも引きずられるように好成績を残して、ダントツ総合優勝だったんですよ。僕は4年間ずっと総合優勝。選手自体の能力も上がって、スケートのレベルの高い連中はみんな、その頃から専修大学に来るようになったから。
広報スタッフ:なるほど。黒岩さん個人としては、スピードスケートで500mと1000mを専門にしていたのは、何かきっかけがあったのですか。
黒岩:僕は、昔から短距離だったですからね。やっぱり中学校の頃から500mが速かったですから。
広報スタッフ:高校時代にレークプラシッドという可能性がわずかに見えたというご経験もあって、世界一になるという目標があったわけですが、当然オリンピックも意識されていましたか。
黒岩:意識してましたね。もうそれは、大学に入った時から。
広報スタッフ:大学時代もまた成績を積み重ねて、3年のシーズンで世界一になったのですね。
黒岩:世界スプリントで、日本人で初優勝。総合初優勝です。
広報スタッフ:それでオリンピックがあった、というところですよね。
黒岩:そう、サラエボです。
広報スタッフ:世界一という実績があってのオリンピック出場ということですね。
黒岩:だからマスコミの期待がすごく高かったんですよね。毎朝起きればカメラがいる。あの頃はすごかったです、大学の寮の中まで勝手に入ってきて、取材し放題でした。世界選手権に優勝してから1年間は、常にカメラやマイクの前で「メダルの自信はありますか」っていう話になるわけで、簡単に済ませるために「メダル狙いますよ」って言ってました。"メダル、メダル"と頻繁に口に出していたんだけど、ある時期から"メダル"と口に出すとストレスになっている時期もあったんですよ。特にサラエボの空港に着いて「ここでメダル狙うんですよね」って言われた時、「あっそうか、俺は1年間メダルって言ってきたけど、メダリストでもなんでもないんだよな、ここで3位に入らないとメダル取れないんだよな」という不安が生まれた瞬間を憶えているし、その不安が恐怖に変わった日も憶えてます。思うように調子が上がってこないのに、取材でマイクを突き付けられると"メダル"と言わざるを得ない。そういう苦しい気持ちを、サラエボの地で味わっていた記憶がありますね。
広報スタッフ:日本人初の世界スプリントの優勝で、それまでは自分の立てた目標でコツコツやってきたことが、今度は他からの期待が出てきたんですね。
黒岩:他からの期待よりも、3年の時に世界チャンピオンになって、これが世界一のトレーニングなんだ、これをやっていればオリンピックでメダルを獲れる、と守りに入った。新たな挑戦はしなかったというのが、今思えば大失敗。今まであれも必要だこれも必要だと1年1年上乗せしてきたものを、その年だけ停滞して全く同じトレーニングを翌年もやってしまった。スポーツの世界で停滞、つまり成長がない時は後退なんですよね。
広報スタッフ:なるほど、言いますよね、「停滞は後退」だと。サラエボに入った段階から、そういう一種の不安が生まれてしまった、だから調子も上がってこなかったんですね。
黒岩:なぜかと言ったら、前の週に世界記録を狙ったんですよ。本来であるならばそこで最後の追い込みをしなければいけない期間に、世界記録を狙って1週間調整をしてしまった。その前の週にスイスのダボスというところで世界記録が出ていて、僕らがいたインツェルという所で同じ36秒台を出せれば絶対に相手にプレッシャーをかけられる。であれば、俺は1週間遅いけれども、ここで36秒台を出してからサラエボに入りたいと思った、この1週間のズレなんですよ。
広報スタッフ:オリンピックに入る前から戦いが始まっていたわけですね。
黒岩:そう。そんなスケベ根性を起こさないで、やるべきトレーニングをやってサラエボで調整すれば、多分メダルは取れたと思うんですね。そう考えると、非常に幼稚だったなと。
広報スタッフ:では、悔しさというのはものすごかったでしょうね。
黒岩:メダルを取れなかった悔しさというよりも、自分がやってきたことを出せなかった、サラエボの500mの日に最高のパフォーマンスが出せなかった、その悔しさですよね。
広報スタッフ:そういう調整の微妙なズレというのは、後から分析して思ったことですか。
黒岩:そうです。実際、そのオリンピックが終わって1週間後の世界選手権は、2位になっているんです。