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- オリンピアンインタビュー
- 第9回 小掛照二さん
【リベンジの夢が絶たれ第二の人生へ】
高橋:メルボルンが終わったあとはどうだったのですか。
小掛:僕は優勝候補に挙げられながら8位に終わったということがすごく残念だったし、次のローマにも一生懸命努力して連れて行ってもらえると思ったら、落とされたのです。
高橋:出場権を得られなかったというのはどうして…。
小掛:陸上は、三段跳びは3位まで、3人は派遣できるのです。日本選手権で僕は3位になったので、当然これはいけると思っていました。僕はローマを最後にしようと、そしてメルボルンの汚名返上をという気持ちを持って4年間努力してきたわけです。ただ、理事会で、三段跳びは1位、2位はいいが、3位の小掛を代表にするか、6位の選手を代表にするかということになったのです。ローマの次は東京でしょう。その時に僕はもう31歳になるから、それより若いほうを選んでローマのオリンピックを経験させて、東京にという意見で二つに分かれたのです。小掛に東京はないのだよということで(笑)。
高橋:でも、先のことは分からないし、ローマオリンピックでメダルを取ることを考えたら…。
小掛:小掛がメダルを取るとか、そういう評価はなかったのではないですか。
高橋:でも、世界新記録を出しているわけですから。
小掛:その後の4年間は決して世界記録に近いものをしょっちゅう出しているわけではないし、だったら若い選手をと…それでどちらを取るかで、最終的に挙手でわずかの差で僕は落とされたのです。それを聞いて、僕はこんなひどい陸上界なのかと思って…発表された翌日すぐ、今まで使っていた陸上のものを全部ポイ捨てしました。こんな陸上界は嫌だということで、僕は競技会も見に行かなかったのです。それで初めて、仕事を本格的にやるようにしたのです。
高橋:そうなのですか。ではもう選手としてはもういいと。例えば陸上のコーチとか指導者としても、一切陸上とは…。
小掛:陸上界はひどい、僕なりに努力したものを考えてくれなかったということで、意地もあったし、まだ27歳ですからね。それでぱっと辞めてしまったのです。そうしたらローマが昭和35年で、39年が東京オリンピックなのですが、37年の春に東京オリンピックの織田幹雄本部長から、「自分が果たせなかったオリンピックの優勝の夢を今度は選手づくりでやったらどうか」とお誘いがあったのです。「君はやはり陸上界でやるべきだよ」という声がかかったものですから、まず会社の社長に話をしたら、「それは当然だよ」と。陸上の経験のある社長さんでしたから、「織田さんから声がかかったなら、給料は出してやるから君は陸上界のためにやれよ」と言ってくれて、それからずっと今日まで来ました。
高橋:その時の「もういい」という悔しかった感情というのは、もうないのですか。
小掛:離れて1年半ちょっとでしょう。やっぱり好きだしね(笑)。気持ちは多少あったと思うのです。そこへ声がかかって。
高橋:では、タイミングがよかったのですね。
小掛:そうですね。東京のオリンピックも近づいたし、我々と一緒に頑張ろうという声がかかって、それからずっとです。29歳で強化コーチに指名してもらって、だからオリンピックに10回も行かせてもらったし、いろいろな経験もさせてもらったと思うのですね。そういう中、三段跳びの選手ではないけれども高橋さんがシドニーで金メダルを取って、あの時は「ああ、やっと自分の果たせなかったオリンピックの優勝の夢が果たせたなあ」と思いました。シドニーの時はスタンドにいたのです。そうしたら高橋さんがトップで帰ってきて、競技場に一歩入った時の競技場の感動というのですか、みんなが立ち上がって、10万人近い大観衆が活躍を称える歓声をあげる。あんなのは日本ではないですよ、僕は本当に豪州というところはすごいと思いましたね。あの時は本当に感激でした。
高橋:随分長い間がかかってのことですね。
小掛:オリンピックで優勝するというのは大変ですよ。マラソンの瀬古(利彦)も期待しましたが、「今度こそ」と思っていたモスクワオリンピックはボイコットでしょう。行っていたら間違いなく瀬古、宗兄弟(宗茂、宗猛)で1、2、3を取っていましたね。私はその時の監督で、チャンスがあったけれども、ボイコットで残念でした。