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『メルボルン五輪50周年祝賀会に参加して』 須永定博
右から3人目が須永氏。その右は奥様の寛子さん、その右は「アン」さん、須永氏の左は豪州の走り幅跳びの「エリカ」さん。
【開催と参加】
私は昭和31年(1956)第16回メルボルン・オリンピック大会にボート選手(慶應義塾大学端艇部エイトクルー主将)として出場する幸運に恵まれました。そして昨平成18年(2006)はその大会から数えて丁度50年目にあたりました。オーストラリア・オリンピック委員会とメルボルン市のあるビクトリア州オリンピック評議会では「五輪50周年祝賀会」の開催を企画し、昨年初より各国に熱心に参加の勧誘を開始致しました。
我々エイトクルー(9人・順位は5位)からは諸般の事情から小生一人だけの参加となりましたが、愚妻と共に11月に現地入りしてみると、結果的には日本からの参加は残念ながら全競技を通じて小生ただ一人でありました。当時の出場選手の総数は男子101人・女子16人合計117人でした。
【記念行事】
11月16~19日 「展示会・メルボルンこの50年」
11月18日 「歓迎レセプション」 メルボルン市タウンホール
11月19日 「開会式と選手団入場行進の再現」 メインスタジアム(MCG)
11月20日 「スポーツ・リユニオン」 ゴルフその他
11月21日 「バララット・ツアー」 ウエンドリー湖(ボート・カヌー競技場)
11月22日 「50周年記念祝賀夕食会」 主催・ビクトリア五輪クラブ
21日の「バララット・ツアー」ではウエンドリー湖畔で式典がありましたが、湖の水が旱魃の為に一滴も無く、悲しい姿を晒しておりました。地球の温暖化対策はもう猶予できない所まで来ているのだと痛感いたしました。しかし、4年前にバララット市に寄贈した8本の桜の苗木は、市の管理により7本が植物園で立派に成長しておりました。
【各国選手との交流】
ボート選手としての参加であった為、ボート仲間との再会が主体となりました。なかには50年振りに会う仲間も多く、河畔で会っても思い出すのに時間はかからないのには、我ながら驚いた次第でした。また、「歓迎レセプション」では水泳・体操など他の競技に参加した方々から、往時の日本選手の消息の問い合わせもありました。
ボート(エイト)のメダル組の米国・カナダ・豪州の仲間とは、思い出を語り合う事が多く、特にホスト国・豪州の仲間達は特別の夕食会を開いて歓迎してくれました。楽しかった日々を共に思い出しました。OAJから頂いた「オリンピック運動」の小冊子は、機会ある毎に配りました。
【その他】
今回の行事で特に印象深いのは、市をあげての歓迎で、豪州の老若のオリンピアンはもとより、子供も含めた多くのボランティアの方々のご協力でした。50年前に撮ったヤラ河河畔の写真を持参し、同じ場所から同角度で市の風景を撮影しました。高層ビルが建ち並び、町の変貌は大きなものがありましたが、人々の心は昔と何ら変わる事のないのを知り、大きな感動を受けました。
50年前、ウエンドリー湖畔で小生の後を付いて歩いていた12才の少女アンとは交際が続き、昨年6月にはわが家に夫婦で泊まりに来られました。そのアンも62才で8人の孫を持つ立派なおばあさんとなりましたが、3時間遅れの到着便を夫婦で空港で待っていてくれました。滞在中は全ての行事に同行し、終了後はビーチハウスに2泊のご招待・・・と歓迎され、空港で再会を約してお別れをしたのでした。因みにアンの亭主と3人の息子は全てボートマンです。
3年後にはローマ・オリンピックの50周年。もし祝賀会があれば、多くの日本選手団の参加を強く期待いたします。そして7年後には東京オリンピック50周年を迎えます。もし祝賀記念行事が行われるならば、オーストラリアに劣らぬ立派な行事になる事を祈り、その成否は我々オリンピアンと東京都民及び多くの日本人の暖かい心にかかっていると考えています。それ迄は元気に生き延びて、参加せねばと覚悟する今日この頃です。