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- オリンピアンインタビュー
- 第31回 橋爪四郎さん
リオデジャネイロオリンピックが近づき、各スポーツの国内予選が活発です。四月上旬に東京辰巳国際水泳場で行われた水泳の選考会は新旧のヒーロー、ヒロインが登場し、水泳日本の底力と息吹を感じることができました。最終日には、自由形長距離の覇者に贈られる「橋爪杯」の授与に橋爪四郎さんの雄姿がありました。米寿を迎えられた橋爪さんのピンと背筋の伸びたワイシャツ長身姿が眩しく、周囲には快活な笑い声が響きます。水泳で戦後の日本を切り拓いてこられた橋爪さんに水泳日本の輝ける歴史と衰えることのない水泳への情熱をお聞きしました。
日本水泳界にあって凄い選手でした。もちろんすばらしい人でした。その人も私も1948(昭和23)年のロンドンオリンピック出場の国内選考に選ばれてはいたのですが、残念ながら敗戦国の日独に参加の要請は届きませんでした。
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翌年8月、日本はいまだ主権を復していないものの、ロサンゼルスの全米水上選手権に、やっと参加できることになり、その人古橋廣之進も私も胸を躍らせました。1500メートル自由形決勝で古橋は18分29秒9で優勝、私は18分32秒6で二位。共に世界新記録でした。予選で記録した彼の恐るべきタイム18分19秒0は七年間破られませんでした。予選では私も18分35秒7の世界新を出したのですが、その三十分後古橋の19秒0の驚異の世界新には全く感服で、その前も後もそうですが、悔しいと思ったことは一度もありません。二人で外国の選手に勝ちたいという気持ちだけが二人にずっとあり続けました。彼に会えたということが私の人生での最高の宝で、ずっと一緒にやって来たというのが最高の誇りです。結局チームはその大会で九つの世界記録をつくりました。その時の古橋は本当にかっこよかった。凄い世界記録をつくっているのに、ガッツポーズは一度もないのですから。勝ってあたりまえという感じなんです。でも私は彼が内心敗者のことも考えていたことを知っています。本当に偉大なスポーツマンでした。
1952(昭和27)年ヘルシンキオリンピックでの1500メートル自由形予選。私の記録はオリンピック新記録で、予選の中で一番良かった。二位のアメリカのフォード・コンノに20秒くらい差をつけていたと思います。順当に行けば決勝で勝てるタイムでした。翌日、古橋の出る400メートル自由形決勝を観戦に行きました。不調だった彼は、彼の水泳人生で一度もない8コースでの出場でした。4コース5コース以外で泳いだことはないのですから。彼は泣きながら泳いでいたと思います。私も泣きながら応援していました。しかしその時、二位に入ったフォード・コンノの泳ぎが私の目に飛び込んで来たのです。1500メートル予選時のコンノの泳ぎと全然違って凄いスピードなのです。衝撃でした。まずいな、明日どうしようと動揺し始めました。その泳ぎを見て平常心を失ってしまったのです。その夜、古橋を慰めようと彼の部屋に行ったのですが、二人とも言葉が出ない。三十三回世界記録を更新した尊敬すべき男がオリンピックで八位完敗。「橋爪、明日どうする」、しばらくして古橋がぼそりと言いました。「いつも廣さんとやってきたけど明日はいない。自分一人だ。今日のコンノの泳ぎを見て動揺している、困ってるんだ」と私も小声で応じました。「少なくとも1000メートル時点で10メートルか15メートル離しておかないと勝てないな」と古橋が言い、「オレもそう思う」と応えました。
当日は結局、今まで練習でつくり上げた自分のペース配分や技術を忘れ、頭はコンノのあのスピードで一杯で、逃げ切ることだけしかなかった。それで1100メートル辺りで疲れて目も見えなくなり、いつコンノに抜かれたのかもわからなくなって自滅でした。
優勝コンノ、二位が私で、三位がブラジルのテツオ・オカモトでした。偶然ですが三人とも日系人ということになり、フィンランドは日露戦争の関係で親日的なこともあって、ヘルシンキの地元の新聞には、「1500メートルは日系人が独占」と大きく出ていました。