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- オリンピアンインタビュー
- 第25回 福原愛さん
ロンドンオリンピックの女子団体戦で、日本卓球界初の銀メダルを獲得した福原愛。3歳からラケットを握っていた“卓球の愛ちゃん”は、幼少期から天才少女として日本中の注目を集めてきた。そんな視線にプレッシャーを覚えたこともあっただろうが、着実に前進してきた彼女は3度目のオリンピックで夢を現実のものとした。
【7歳で抱いたオリンピックへの夢】
大きな卓球台の前でピョンピョンとリズムを取りながら、子どもとは思えないような強いボールを打ち込み、試合では劣勢になれば泣き出してお母さんのもとに走り寄る…そんな“泣き虫愛ちゃん”は当時、日本の誰もが知る天才少女だった。ロンドンオリンピックでメダル獲得が決まり、団体戦のチームメートである平野早矢香、石川佳澄と抱き合って涙を流す福原を見たとき、「嬉し涙を流せてよかったね」と感慨深い思いを抱いた日本人は、決して少なくなかったはずだ。そんな周囲の勝手な感情をよそに、福原自身は一歩一歩、着実に歩を進めていた。
仙台市生まれの彼女が、企業と専属契約を結ぶことで小学生にして“プロ卓球選手”となり、世界各国をまわるプロツアーに参戦、プロ選手としての活動を続けるために私立中学に進学、そして卓球世界最高峰の中国スーパーリーグへの挑戦…幼少期から期待された人材が、期待された道を着実に歩むことは、それほど簡単ではないはずだ。しかし、彼女はそれを成し遂げた。その要因の一つに、7歳のときに芽生えた「オリンピック出場」という夢があったのは間違いないだろう。
7歳の卓球少女は1996年、アトランタオリンピックの卓球会場にいた。テレビ番組で連れてきてもらった大きな場所で初めて、オリンピックという舞台と自分を重ねた。
福原愛(以下、福原):「実際に試合の応援をして、そこで初めて、“オリンピックってこういう場所なんだ”と…
7歳なのですごく漠然とした夢でしたが、“いつかここで試合がしたいな”って思うことができて、いい経験をさせていただいたんです」
このとき初めてイメージできたオリンピックが、その後、自分の中で具体的な夢に変わった。それから8年後、15歳で初めて出場したアテネオリンピックは、格上の選手に勝利し、ベスト16入りを果たして一定の収穫も得たが、次のように感じたという。
福原:「まずオリンピックに出ることができたということだけでうれしくなってしまって…もちろんメダルを獲得したいって思ったんですが、実際にメダルとの距離をすごく感じた大会でした。メダルを獲るのは本当に難しいんだと、実感しました」
そして、中国国内最高レベルのスーパーリーグ参戦などで経験を積んで臨んだ北京オリンピックは個人戦と団体戦に出場し、団体戦ではメダル決定戦まで進んだが、惜しくも敗退。
福原:「アテネのときに感じた“メダルとの距離”を意識し過ぎてしまったのかな、という大会でした」