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- オリンピアンインタビュー
- 第18回 大澤明美さん
【強化選手から代表選手へ】
五味:オリンピックに関しては正式競技になるのが長野からだったということもあって、強化合宿に入っていった頃はオリンピックもご自分の中での目標として考えていたんでしょうか。
大澤:さっき話した20名に入ったときは、カーリングがうまくなりたいという気持ちはあったんですが、オリンピックに出たいとかはそれほど考えてなかったんですよ。だけど10名に絞られてBチームに編成された頃には、もうオリンピックに出たいというよりも、出ないことが考えられなかったですね。出るしかないというか。ここからは勝負の世界なので、絶対に負けたくないと思っていました(笑)。特に私はBチームだったので、Aチームに勝たなければという思いがずっと心のどこかにありましたね。
五味:初めて世界選手権に出られたときというのは会社のチームですか。
大澤:そうです。93年と94年は会社のチームで出場して、95、96年は出場できませんでした。そしてオリンピックの前年の97年は代表チームとして出場しました。
五味:まず、世界選手権という、始めに世界を意識した大会で実際に立てたときというのは何か感じたことはありましたか。
大澤:やはり、日の丸を背負って試合をするというのは、特別な思いがありましたね。うまく言葉では言えないんですけど。でも、初めて出た世界選手権の1試合目1投目は、正直、足が震えました。今でもあれほど緊張したことはないですね。
五味:実際に世界と対戦して…目標と結果はどうだったんでしょうか。
大澤:93、94年のときは、世界と戦って自分たちがメダルを取れる位置にいるとは思えませんでした。まだそのレベルには達していないなと。その当時の日本はまだカーリングの歴史も浅かったので、その差はかなり大きかったですね。でも、たしかに上位の4、5カ国は実力的に抜けていたんですが、順位だけを見れば日本も7、8番手にはいたので、気持ちが折れることもなかったし、絶対に勝てないという感じでもありませんでした。
実際、97年の世界選手権では、上位4カ国が上がれる決勝トーナメントに初めて上がることができたので、私だけじゃなく、日本のカーリング全体がこの長野オリンピック前の4年間で飛躍的に力をつけたんじゃないかと思います。
五味:そういう意味でも多分、日本で開催する長野オリンピックはカーリングという競技にとってはすごく大事なオリンピックだったかなと思うんですが。
大澤:そうですね。前年の世界選手権で4位だったわけですから、その勢いとホームのアドバンテージを生かして、もしもう一つ順位を上げられていたら、カーリング界だけでなく、日本全国に大きなインパクトを与えられたと思うし、私の人生だって変わっていたかもしれませんね(笑)。
五味:実際に、自国開催のオリンピックに近づいてきたところでメンバーに選ばれたとき、実感はありましたか。
大澤:もちろんですよ(笑)。さっき「出ないことは考えられない」と言いましたが、やっぱりメンバー発表のときは、もし選ばれなかったらっていう不安もありましたから。でも、やっぱり自分がオリンピックに出ないはずがないとも思っていたし……、とにかく、選ばれるまでは胃が痛くて痛くて(笑)。それからはチーム内でのポジション争いもしつつ、その一方でチームとしてまとまらなくてはいけなかったので、「責任」という言葉を強く意識するようになりました。
五味:そこから実際のオリンピックまでの1年というのは、特に自国開催ということでプレッシャーのあった年でしょうか。
大澤:私たちのときは、カーリングが初めて正式種目になるということもあって、オリンピック代表に内々定したのは2年前の96年だったんです。だから他の競技よりずっと早い段階から準備できたので、最初はプレッシャーなんてまったくなかったんですが、先ほども少し触れたように、97年の世界選手権で決勝トーナメントまで行ったので、そこから一気に注目されて。結局、準決勝、3位決定戦ともに負けてしまって4位だったんですけど、マスコミの取材攻勢が激しくなるに連れて、自分でも気付かないうちにプレッシャーを感じていたのかなと、今になって思いますね。
ただ、自国開催だったことは、逆にアドバンテージになったと思います。やはり、たくさんの方々に応援していただいたことはすごく力になりました。海外だと体調管理や食事の問題、それに時差とか言葉の問題がありますからね。もちろん、人によっては海外のほうが集中できるというケースもあると思いますけど、私は自国開催でよかったと思っています。