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- オリンピアンインタビュー
- 第12回 上野由岐子さん
【オリンピック出場の夢の実現】
高橋:子供のころの夢って、何かありましたか。
上野:いや、特にはなかったですね。自分が中学生のときにソフトボールがオリンピック種目になったので、そのときにソフトボールでオリンピックに出たいという目標を立ててからは、それ以外はないという感じです。
高橋:オリンピックというものを知ったのはいつですか。その、ソフトボールがオリンピックの種目になったときですか。それとも、その前にもう知っていましたか。
上野:その前から、オリンピックという存在は知っていたと思います。
高橋:ソフトボールがオリンピックの正式種目になったのが、1996年のアトランタ大会。そのとき上野さんは中学生でピッチャーをされていて、2000年のシドニーのときは高校生だったのですけど、ケガをされたのですよね。そのときのお話をしていただけますか。
上野:体育の授業でケガをしたんです。それで3カ月入院しました。
高橋:そのとき、ケガがなければシドニーに行かれていたわけですよね。
上野:それは後々聞いた話なので、そのときは全然そんなつもりはなかったし。知らなかったんです。全日本に入ってから、監督に「こう考えていたんだぞ」「本当はこうだったんだぞ」みたいな感じで言われて、ああ、そうだったんだ…みたいな。
高橋:聞いたとき、悔しかったですか。
上野:いや、正直、そのときの自分はオリンピックに出るなんてことは考えていなかったので。自分がそういうレベルにいると全然思っていなかったんです。
高橋:端から見ればすごい選手なのに、自分ではそこまでいっているとは思っていなかったのですか。
上野:そうですね。そういう環境じゃなかったのもあるとは思うんですけど、まだ高校生だったので、自分なんかよりもすごい選手は実業団にはいっぱいいるという感覚だったし。だから、まさか自分が選ばれるとは思ってなかったので。
高橋:そうですか。2004年のアテネオリンピックのとき、銅メダルを取ったわけですけれども、悔しさはありましたか。
上野:もちろん金メダルを狙いにいっていた大会だったので、それが銅メダルだったということに対しても悔しかったのですけど、その大事な場面で、監督に「おまえ行け」と言わせられなかった自分が悔しかったというか…まだ監督に信頼されるピッチャーになれていなかったんだなということをすごく感じたので、それが本当に、あのときのオリンピックでは一番悔しかったというか、悔いに残っています。
高橋:実力的なものよりも、精神的なものということなのでしょうか。
上野:ソフトボールはチームプレーなので、お互いの信頼関係が大事だし、自分が一番それを求めているので。
高橋:そうすると、まだその信頼関係ができていなかったということですか。
上野:できていたのかできていなかったのかは、お互いに分からないですけど。そういうのって、あうんの呼吸じゃないですか。自分は今まで監督の下でずっとやってきて、自分がそろそろ交代かなと思ったときに、必ず監督が「おまえ行け」と言ってくれたりして、監督にすごく信頼されているという感じを受けていたところもあったので、大事な場面でそう言わせられなかった自分というのは、思っていた以上にまだ信頼されていなかったのだなと感じたんです。
高橋:完全試合をされたのですよね、中国戦のとき。
上野:はい。
高橋:そういう実績も上げていたわけだから、当然そのときもという気持ちはあったということですね。
上野:信頼関係って、力だけがすべてじゃないので。うまいから信頼しているわけじゃなく、人間性だったりとか、性格だったり、すべて兼ね備えていなければいけないと思うんですよ。実力があっても嘘つきだったら信頼されないと思うし…その辺は目に見えないものです。
高橋:それが悔しかったと…その直後ですか、2005年に渡米されたと聞いたのですが、これは監督に勧められてですか。
上野:はい、チームの監督にです。機会を用意してくれたというか、そういう環境をつくってくれた。
高橋:ご自分でも、アテネの後、悔しいという気持ちを切り替えたという感じですかね。
上野:はい。