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- オリンピアンインタビュー
- 第5回 横山謙三さん
【いきなり訪れたオリンピックの舞台】
広報スタッフ:高校3年の時に岡野さんとの出会いがあって、それからクラマーさんが日本に来られて、そこから横山さんの本格的なサッカー人生が始ったということですね。
横山:ユース大会の候補選手に入って、大学にサッカーで行くっていう道もあるなぁなんて思って。当時、渡辺正さんていうセンターフォワードがいて、その人はすごくいかつい格好してて、豪快で面白い人だなと思ったので、ちょっと一緒にやってみたいななんて気持ちもあって立教に入ったんですけどね。
広報スタッフ:本当に岡野さんとの出会いがなければサッカーを続けられていなかったかもしれない…。
横山:そうね、岡野さんと出会わなかったらね。ほかの人だったら、僕はまともに練習したことないわけですから、そんな選手を選ぶわけがないですよね。で、大学に行ったら、全日本がすぐに長沼(健)※-岡野体制に変わったわけです。それで、僕はいきなり代表っていうのもなんだからって言うんで、研修生か何かで、大学に入学した頃からずっと練習に行かされていました。 (※長沼氏は岡野氏の前の日本サッカー協会会長)
広報スタッフ:すごい英才教育ですね!
横山:みんなには「へったくそなのに入ってきやがって」とか「お前は岡野学校の優等生だからしょうがねえな」なんて皮肉を言われて(笑)。自分でもわかってましたけど、本当にキーパーの技術なんて何もなくて、どうしたらいいのかなって…。その頃にクラマーさんにお会いして。東京オリンピックの時は僕は学生で、サッカーの右も左もわからない中でオリンピックそのものもあまり…なんだかよくわかんないからワーワーやってりゃいいやなんて思ってたんですけどね、レギュラーの保坂(司)さんていう大キーパーがいたので、試合に出るなんていう感覚はまったくなかったんですけども、その人が遠征中に手を骨折しちゃったんですよね。それで、その日からクラマーさんと猛練習。ほかの人は休みがあっても僕だけ休みがなくて、あの時は嫌で嫌でしょうがなかった。結果的には良かったんだと思いますけどね、そういう時期があって。その頃はまだ21でしょ、経験もほとんどないし、どうしていいんだかわからない状態だったですけどね(笑)。まあ、アルゼンチンに勝ったんで結果としては良かったんですけど、やっぱりその時、ヨーロッパのチームと比べたらだいぶ力の差があるなあと感じてね。メキシコオリンピックに行くには、相当これから努力しないといかんという気がしましたね。1965年に日本リーグができて、Jリーグができた頃と同じようにその時はサッカーが少し盛んになって、クラマーさんが指導してきたサッカーというものが各チームに少しずつ浸透してレベルも上がってきた。そこが日本にとっての重要な4年間であり、メキシコ大会につながっていったと思いますね。ただ、その時は指導者の問題とか選手育成のプログラムがきちっとできてたとか、全国にそういう組織があったというわけではなく、我々だけの、スペシャリスト集団が1チームあったというだけ。それが8年間、1960年から64年、そして68年とほとんど同じメンバーでいって、そのあと若手がなかなかついてこれなくて低迷期に入ってしまったっていうことじゃないかなと思いますね。
広報スタッフ:ただ、そういうスタートの時期、日本でサッカーがそれだけ認知されて広がっていくというところの最初のきっかけという意味では、駒沢競技場でアルゼンチンに勝ったというのは相当なニュースになったんでしょうね。
横山:世界のニュースとしてはそうかもしれないですね。日本はまだ、サッカーそのものがあまり理解されてなくて、勝っても負けてもたいしたことじゃないって感じでしたけど。でもまあ、アルゼンチンに勝った時は結構大きな記事になってましたよね。
広報スタッフ:1964年に東京でオリンピックが開催され、実際に試合にも出場されていますが、何かオリンピックに対して思ったことはありますか?
横山:東京オリンピックの時は、オリンピックに出たとかいう実感はまったくなかったですね。要するに、オリンピックがなんだかよくわかんないまま…自分自身ではその試合の日を迎えるまで、練習がきつくて、もう嫌で嫌でしょうがなかったですからね。
広報スタッフ:今まで無縁だったというか、考えたこともなかったようなものであって、特別な思いはなかったということですね。
横山:そういうことですよね。だから、今の人たちは「楽しんで来たい」とか言うけど、楽しめるものが自分の中にはなかったと思うんですよね。それで試合やって、アルゼンチンの時に僕がエラーして1点入れられてね、それでもう「面白くないなぁ」っていう感じだったですよね(笑)。だから、川淵さんが同点ゴールを入れて、最後には勝ち越して3-2で勝ってね、あの時は本当に「良かった」と思いましたよね。
広報スタッフ:むしろホッとしたという感じですか?
横山:うん、ホッとしましたね、ホッとしたし、「こんなのやっても面白くないな」という、むしろそういう気持ちの方が東京のオリンピックではありましたよね。ただ、それと同時に、やっぱりアルゼンチンに勝った喜び、自分が失敗して点を取られて、それでもなおかつ勝てたっていう嬉しさは、それは大きなものがありましたけどね。
広報スタッフ:2回目のオリンピックではメキシコシティ大会に出て、今度はメダルというところまで届いたわけですが。
横山:チームは丸8年かけて出来上がってきたチームで、チームとして非常に面白いものを持ってた。面白いものっていうのは、ある程度守備ができるようになってきて、そこに釜本(邦茂)、杉山(隆一)っていう素晴らしい得点ができる選手がいて、特に釜本の得点力っていうのはもう、世界のストライカーの数本の指に入るくらいすごかったですね。得点を取れる選手がいたっていうことで、僕なんかは、簡単に言えばただ守ってりゃいいっていう感じでね(笑)。メキシコの大会は最初にナイジェリアとやって、何をしてくるかわからないし日本をバカにしきったようなチームで…でも3-1で勝って、次のブラジル戦が1-1で引き分けて、1勝1分けってことはほぼ予選を突破できるってみんな勇気が出てね。内容的にも、ブラジルに引き分けたっていうのはすごく力になったと思います。ブラジルってやっぱり強いんですよ。東京大会では1回しか勝たなかったのが、今度は予選突破できてベスト8に入れるって。第3戦はスペインと0-0の引き分けで、ベスト8ではフランスとやって3-1で勝ったんです。次の準決勝で当たったハンガリーは当時ワールドカップにも出ていて、力の差がだいぶあった。結果的に5-0かなんかで負けちゃったんですけど、チャンスもあったし、負けても結構みんなさっぱりしてました。3位決定戦は地元のメキシコとで、僕自身は非常にやりやすかったんですよ。というのは、その年の4月に中南米遠征をした時にメキシコシティでオリンピックチームと試合をやっていて、その時は4-0で負けたんですけど、いわゆる高地での試合だったのでみんな動けなくて、「ちゃんとした状態でやったら負けないな」と思ってました。個人的には、メキシコと当たるっていうのはむしろ嬉しかったですね、前回負けて、今回は勝てるぞって自分で密かに思ってたんで。
広報スタッフ:メキシコとの試合経験があったからということですか?
横山:経験があったから。だから経験っていうのはすごく大事ですよね。そしたら釜本が2点入れて前半に2-0になって、日本としては勝ってるから安全に安全にっていうことで、守り重点になってっちゃったんです。そうするともう一方的に攻められる。もう、ずっと自分の前でやってるんですよね(笑)。
広報スタッフ:キーパーとしては仕事が多くなりますよね(笑)。
横山:でも、そういう状況になった時、こういうふうに守っていったら守れるぞってイメージしてた通りに戦えたのが大きかったと思いますね。それは、4月に戦ったことがやっぱり大きな力になったんですよね。
広報スタッフ:横山さんのペナルティキックの阻止が、メダルに導いたとも言われてますが。
横山:あれはたまたまですけどね、前の試合とかを見てて、8割方あそこへ飛んでくるっていうのを知ってたんで。まあ、間違えたら…しょっちゅう間違えるんですけど(笑)。どっちへヤマを張るかっていうのは、自分でも間違いなくこっちへ来るなと思ってて、こっちへ来るように目印になるようなものをと考えて、自分で使ってるタオルをその方向に置いたんですね。それは蹴る方にしてみれば非常に目印になると思ったんですよね。
広報スタッフ:そうなんですか!
横山:でも最後にいつもね、ヤマはこっちだと思っていながらも、もし逆に来たらどうしようと思う(笑)。結局はヤマを張った方に、少し思い切って飛び過ぎてあまりボールが端に来なかったんでビックリ(笑)。
広報スタッフ:そうだったんですか、そんな仕掛けがあったんですね。
横山:そういうのが、運がある時はうまくいくということでしょうね。運がない時は、東京オリンピックの時のチェコ戦での、僕が飛んだのとボールがまったく逆に行ってる写真がありますけどね(笑)。
広報スタッフ:でも、東京大会時のチームというのは、本当に戦う姿勢というか、選手たちの気迫がすごかったというようなお話を聞いたり、記事を読んだことがあるんですけれども。
横山:そのような話をよく聞きますが、自分勝手な人たちが多くて。ただそういう人たちが8年間…必ずしも全員が8年っていうことはないんですけど、少なくても5年以上の付き合いがあって、その頃の遠征っていうのは非常に長くて1ヶ月以上行ってたんですよ。そうすると不満もいっぱい出てくるし、問題もいっぱいある。協会としては最高の遠征を考えてやってるんでしょうけど、今とは全然比較にならないですよね。だからもう不満だらけの生活を1ヶ月も一緒にやってるっていうことで、協力しなきゃいけない部分と自分の我を張ってなきゃやってられないっていうか、そういう部分がいろいろあって、本当にバラバラなチームだったですよね。それが、メキシコに行って初戦で勝って、今までバラバラだったのがみんなで戦おうっていう雰囲気がね、徐々にあったですね。それが基で勝てたのかわかりませんけど、すごくそれが固い絆みたいになって。そういうことがあったら勝つというものじゃないんですけども、そういうものが今までにないチームだったんでね(笑)。
広報スタッフ:無意識のうちに集大成みたいな気持ちが出てきたのかもしれないですね。
横山:そういうことなのかもしれないですね。それから、第1戦を戦った時に八重樫(茂生)さんっていうキャプテンがケガして出られなかったんです。キャプテンがいなかったっていうことで、みんなで頑張ろうっていう気が起きたのかも。少なくとも僕は、こうしたら守れるとか、東京の時とはまったく違ってましたよね。サッカーの知識とか考え方が違ってたんで、守りってこうなんだなっていうものを感じながらやれたっていうのは大きかったですね。
広報スタッフ:自信というか、地に足が着いてるという感じがしますね。
横山:一般的に言えば自信みたいなものですよね。トレーニングと試合と常に共通して、試合のためのトレーニングっていうのがきちっとできてて、それが試合の中でどういうふうにつながっていくかということを理解しながらやれてたっていう感じですね。
広報スタッフ:クラマーさんは、その頃はもう日本を離れていたんですか?
横山:クラマーさんもメキシコにいましたよ。チームに正式についてるわけじゃないんですけども、しょっちゅう部屋にも来てましたし、次の戦い方はどうだとかいろいろお世話になりました。日本のメダルは一番、クラマーさんが喜んでくれましたね。
広報スタッフ:本当に日本サッカーの基礎ができた時代で、クラマーさんから教わったことはいろいろあったと思うんですが、特に何か覚えてらっしゃることはありますか?
横山:いっぱいあってね、本当にあり過ぎるぐらい。クラマーさんにとっても、日本のチームは世界の一番下だったと思うんですよ。ボールも蹴れないようなチームだった。それがメダルを取った、それはクラマーさん個人にとってもものすごい出来事だったんじゃないかなと思うんですね。僕らは途中から加わったんで、あんまりそういう面じゃ、クラマーさんよりは感動は薄いんじゃないかな。
広報スタッフ:なるほど、当事者の選手たちよりも感動されたんじゃないかと。
横山:クラマーさんは、すごくそういうものを感じとってたと思いますよね。クラマーさんはね、「勝ったり負けたりということよりも、お前達みたいな友達ができることが一番大事だ」なんていうことを、平気で言ってるわけ。やっぱりそういう、人としてといいますか、そういうつながり、絆みたいなものができあがるということが、今頃になると一番、良かったことかなと思いますね。
広報スタッフ:やっぱりその時のチームメイトというのは特別だと…。
横山:そうですね、現在は、その時のチームメイトとはほとんど会わないですけど、何年たって会ってもあまり感覚が変わらないんですよね。昔のその、戦友っていうのがね、戦友っていうのはあんまりいい言い方じゃないけども、一緒に戦った仲間っていうのは、そういう違和感っていうのが何年たってもないですね。