選手インタビュー

加藤澤男さんインタビュー

加藤澤男さん 加藤澤男さん 体操 1968年メキシコシティー 1972年ミュンヘン 1976年モントリオール
 「練習っきゃない」 インタビュアー:田村清行 カメラ:田村友考

加藤沢男の体操はことごとく細部まできれいだった。驕ったところのない奥ゆかしい体操だった。白いタイツの軌跡が美しかった。完成度の高い演技だった。そして勝った後のインタビューの少しはにかむような穏やかで上品な小声を思い出す。三大会に出場し金8個、計12個のメダルを獲得したミスターオリンピック、ミスター体操に、青葉繁れる五月の終わりに現在教鞭をとる白鴎大学で、最初のオリンピック出場までのお話を伺った。

子どもの頃は冬はスキーで夏は水泳、体操は遊びでした。中学校に入った時も本当は野球をやりたかったのに、お前までやるな、のアニキの命令で断念しました(笑)。数年先に新潟に国体が来るとされていた、中学二年の頃、体操の有望株を集めて来たる国体に備える動きがあったらしく、新潟南高校に来ないかとの誘いがありました。

高校には声をかけられた四、五人が県内から来ていて、僕は新潟市内の叔父のところに寄宿して通いました。高校の練習はいたって自由で、強制も何もなかった。ただ夜間部があり、体育館は夕方六時には渡さなければならない約束だったので、二時間の練習は必死でやりました。高校一年と三年とでは身長も骨格も変わるし、それに伴って体操の技や質もガラッと変わる。この三年の変化は大きい。自分はひ弱な方でコンスタントな成長だったけど、それでも中学時の自分と比べると別人のようになったと思う。高校から始めるあん馬、平行棒、つり輪にも新鮮な思いで取り組みました。

高三、東京オリンピックのために六月開催(普段は十月)とされた新潟国体で、高校男子団体総合で優勝、種目として表彰はないのですが個人総合でも一番でした。新潟国体に向けての県の長年の夢が果たせて一安心。ちょうど五十年前の1964年のことです。

その年の東京オリンピックではローマ大会に続いて遠藤幸雄選手を中心に体操日本の面目躍如

加藤澤男さん

国体が終わって二週間後に新潟地震でした。四階建てのアパートは倒れるし、学校の傍にあった完成したばかりの信濃川にかかる昭和大橋が、その日帰ろうとしたらなかった(笑)。わが目を疑いました。地震直後に始まった進路指導での僕の、東京教育大に行きたいと思います、に対しては、六・四でダメだな、と言われたのを覚えています。確かにあまり勉強していませんでしたが、クソッと思って、それから猛勉強しました。

大学では体操の練習の合間に授業に出るといった日々でした。大学三年、四年の頃は大学紛争が激化して、教育大もご多分に漏れず、ロックアウトされて授業はできず、僕らの体育学部も閉鎖されてしまった。そんな中でも目の前にはオリンピックがぶら下がっており、ムキになって練習していました。四年時は教育実習から帰ってからも延々と練習しました。

体育学部の連中は学生運動に意外とそっぽを向いていたんですが、いよいよ身近に迫り現実練習ができない破目に陥ると、体操部に限らず、彼らから学校を守る側に立ちました。メキシコから帰って来た時はまさにあの新宿騒乱でした。
オリンピック出場経験のある方へ 未入会のオリンピアンはこちらをクリックしてください
日本オリンピアンズ協会 事務局
〒150-0041 東京都渋谷区神南2丁目1番1号
国立代々木競技場内
TEL:03-5738-3047