選手インタビュー

>小野清子さん 小野清子,体操,1960年ローマ,1964年東京

【競技引退後】

元川:オリンピックをやりきったことで、その後の家族の生活が充実できたところもあったのではないでしょうか。

小野:終わってからどうだったかという覚えが全然ないです。「お母さん、帰ってきたよ」という、大げさなものもありませんでした。家に帰れば、子どもの前に母親がいることは当たり前のことですから。体操を引退した後は、慶應義塾大学の授業に行き、普通の生活をしていました。その他にも、「おはよう日本」という番組のキャスターもやっていました。
実は、学生時代にアルバイトとしてNHK朝の「テレビ体操」をやっていました。私が卒業する年に、女子の体操選手を4人採用するということになりました。1人はFDという“キュー”出し、残りの3人でテレビ体操という感じです。キュー出しは全員できるように教えられていました。NHKの舞台上に3つセッティングされていて、右側では西沢祥平さんというアナウンサーがニュースを読み、左側では丹阿弥谷律子さんが家族向きの話をし、真ん中で私たちがテレビ体操をしていました。

元川:振付だけでなく、演出などもやっていたのですか?

小野:裏方など、何でも屋みたいに言われたことは全部手伝いました。また、局の運動部のお茶くみなどもしました。いろいろやって、お昼くらいに帰るのですが、私は慶應義塾大学の授業もあったので、そのあと大学に出勤していました。

【体操界や選手の環境について】

元川:それから50年近く経つわけですが、今の体操界や選手の環境などについてどのように見られていますか。

小野:今の女子体操は難しくなりすぎて、私たちはもう点数もつけられません。計算の方法も違うと思います。私たちの頃は、演技後すぐに成績が貼り出されていました。

元川:競技自体が高度になってしまって、女子はメダル獲得が難しくなってしまっているのでしょうか。

小野:当時でも、女子の個人メダル獲得は大変でしたが、池田敬子さんは世界の中でも10本の指に入っている選手でした。なかには5本の指に入っている種目もありました。平均台では世界選手権で優勝なさっています。昔は外で演技をしたのですが、平均台は外に置いておくと乾燥し、太陽の熱で熱くなってしまうこともあります。このような大変な状況で、池田さんは夕暮れ迫る中で良い演技をして優勝しました。私は外で演技をしたことがなかったのですが、池田さんが所属していた日本体育大学は頻繁に外で練習をしていたと聞きました。何が功を奏するかわからないものです。

元川:環境によってもパフォーマンスが変わるっていいますよね。

小野:その空間に花や何かがあって、その中で演技するのと、何もないところで演技をするということは全然違いますよね。そういう意味ではいろいろなところで演技をしているほうが強くはなります。
学生時代は、よく運動会のときの模範演技に連れて行かれましたが、経験は何一つ無駄ではないということです。

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