選手インタビュー

脇田寿雄さんインタビュー

脇田寿雄さん 脇田寿雄さん ボブスレー 1988年カルガリー 1992年アルベールビル 1996年リレハンメル 1998年長野

【2年でオリンピック出場を現実に】

元川:資質があると見抜かれて、選ばれた後の活動はどうしていったのですか。

脇田:当時は長野にコースがなくて、北海道に手稲山という札幌オリンピックのときのコースがまだあったのです。でも、昔のコースと最近のコースでは造りが違って練習にならない。昔のコースはコンクリートの壁があるところに単純に氷を積んで、それに水をかけて削っていく、どちらかというと自然コースだったのですが、最近はパイピングコースといって、高速道路のような台があって、そこに冷却用の管が通っていて、冷やして水をかけていくと凍ってくるというもので、昔のコースはどちらかというと角張っていて、今のコースはほぼ丸いのです。ですから、当時は少なかったのですが海外遠征に行きました。コースのあるスイス、オーストリア、ドイツ、またノルウェーにも行きましたし、当時、サラエボも行きました。あとはフランスですね。カナダにも二つ、アメリカにも二つコースがあって、ドイツなどは四つぐらいあるかもしれませんが、1年間通して滑れるコースはまずないのです。

元川:その場合、夏は普通に自分の競技、つまり投てきの練習をしていたわけですか。

脇田:自分の競技の練習をするのと、夏はプッシュバーンという押すだけのコースを氷で造っているところが何カ国かにあるのです。本当に建物の中に斜面を作って、スケートリンクと同じですね。そこで押すだけのトレーニングをしたり、それがないところはボブスレー自体にローラーを付けて、ローラーボブというプッシュのトレーニングをするか、あとは基礎体力のトレーニングをします。

元川:極めて地道な、努力の世界ですね。

脇田:でも、そこは基本的に陸上競技と全く同じだと思いますよ。

元川:それでオリンピックに向かっていくわけですが、最初のオリンピックのカルガリーに対しては、準備期間は2年ほどですか。

脇田:2年ですね。1986年に遠征に行ったときには、2人乗りが3チームでナショナルチームとして構成されていました。ボブスレーには2人乗りと4人乗りがあるのはご存じだと思うのですが、当時、JOCの派遣枠は4人乗り1チーム、つまり枠が4人だったのです。当時はポイント制がなくて、世界選手権など試合に出ていて、JOCで承認してくれればオリンピックに出られた時代でした。枠は4人ですが、選手は2人乗りが3チームいたので、2年間で1チーム落ちるということでスタートしました。

元川:ナショナルチームに入った時点でサバイバルがあったわけですね。

脇田:カルガリーオリンピックのときは最終選考もカルガリーでやったのですが、何とかぎりぎり私のチームが残ってオリンピックに出られたという、最初はそういうところでした。

元川:脇田さんと組んでいた方はどういう方ですか。

脇田:武田さんという方で、当時は夜久と言いました。夜久雄爾さんです。彼は仙台大学を卒業されて、サラエボオリンピックも経験していましたから、最初は私は後ろで押す役目でした。

元川:夜久さんがパイロットということですね。2人乗りで息を合わせる難しさというのは、どんな感じなのですか。

脇田:本当にトレーニングしかないですね。呼吸を合わさなければいけないので。私がボブスレーをやって思ったのは、4人乗りも2人乗りも同じですが、出場している選手が一度にタイミングを合わせたり力を発揮したりする競技は、意外とほかにないのです。陸上のリレーにしても、誰かが休んでいる間に走っていたり、ヨットにしても多分同じ動作はしていないです。舵を取っていたり、巻いていたり。ボブスレーはそういうところが面白いなと思いました。外国で4人乗りが人気があるのは、スタートが面白いのです。息を合わせなければいけないのと、やっていて思ったのですが、後ろで押す方は黒子なのです。車で言うとエンジンのようなもので、やはり前の人が花形です。皆さんは、ボブスレーはスタートしたら勝手にゴールすると思われるかもしれませんが、そうではなくて、舵を切らなければゴールできないし、速いタイムも出せないし、下手な人は転ぶんです。成績が悪かった場合に批判されるのはパイロットですし、いい成績を出したときに賞賛されるのもパイロットで、駄目なときには「後ろが遅いよ」と逆に怒られる、そういう世界なのです。

元川:極端な話、後ろの人は駄目なときぐらいしか話に出ないような黒子であると。

脇田:はい。黒子なので、前の人をいかに気持ちよく競技させるかということを思っていました。それは今の仕事でも生きているところなのですが、いろいろな準備をして、彼が最大のパフォーマンスを発揮できるように、メンタルの面まで支えなければいけない。遠征に行くとパートナーとずっと一緒に生活するので、そういうことはつくづく思いましたし、学びました。

元川:夜久さんの方が先輩だったのですか。

脇田:全然上です。カルガリーオリンピックの選考会もそうですが、当時、4本で勝負して、4本のトータルで選ぶのか最高タイムで選ぶのかは聞かされていなかったのですが、トータルで選ばれたのではなかったのです。実は私と夜久さんは3本目に転倒してしまったのですが、夜久さんを責めるわけにはいかないので、しょうがないか…と思ったことを今でも覚えています。でも、夜久・脇田組は、もう1チームよりスプリントが速かったので生き残ったわけです。今思うと、青山先生が声をかけてくれなければやっていないし、転んでも運良く選ばれたというのも、私の人生の多分大きな分岐点の一つだったと思います。

元川:オリンピックへのあこがれというものはあったのですか。

脇田:やはり小学校のときから…何の競技でというのはなかったのですが、入場行進にはあこがれていましたね。日の丸を胸に行進をするというのに、私はあこがれていました。

元川:実際に行進をしたのですね。入場行進の良さというのは、思い出としてはどうですか。

脇田:やはりいいですよ。私目線で言わせていただくと、競技で参加した人でないと分からないでしょう。ただ行進するのではなくて、最終的に競技に出場するために行進というものがあると思うし、私が競技生活を送る上で、海外ではなく自国開催のオリンピックに出て、行進できたのも、本当についていたと思います。競技に出場するのはもちろんですが、国の代表として入場行進するというのは、皆さんまた一つのモチベーションにもなっているのではないかと思います。これは私だけの話で、金メダルを取れたらまた少し別の世界になると思いますが。

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