選手インタビュー

黒岩彰さん 黒岩彰さん スピードスケート 1984年サラエボ 1988年カルガリー

【精力的なセカンドキャリア】

広報スタッフ:スケート界を離れて、まったく違う野球界に携わったのですよね。

黒岩:コクドの堤さんと話をして、「広報の勉強でもしてみるか」ということになったんです。ライオンズで広報の勉強をしていた年にドラフトで(松坂)大輔が入ってきて、「大輔にいろいろ伝えられるのはお前しかいないだろう」と堤さんに言われて。広報として接しながら、すべてのことを教えてくれということでした。要はトレーニングのことも含めて、アスリート的な考えを大輔に教えてくれ、と。何の躊躇もなく受けましたけど、研究もしました。

広報スタッフ:本当にマネージャーのような感じで付いていたということですか?

黒岩:そうそう。1年目なので行動能力が何もないでしょ。だから常に車で送って行って、話をする機会がすごくありましたよ。

広報スタッフ:確かに、アスリートとして感じてきたこととか、トレーニングに対して自分が開拓しながらやってきたことというのは、別のスポーツであっても参考になることはあるのでしょうね。

黒岩:ありますよね。僕にとっても、違う世界を見るのはすごく大きなことなんですよ。もしスケートしか知らなかったら、すごく小さい世界でしか働けない人間になっていたと思うんですよね。だけど広報っていうものを知ったおかげで、いろんなマスコミの関係者と接することができた。プロ野球の世界に入って、選手、監督、コーチ、ライオンズだけでなく12球団のそういう人たちと巡り会うことができた。それに携わるテレビ局、マスコミとまた接する機会が多くなった。そういう意味では、スケートでやってきたことが広報で活かされ、またそこで学んだことがプロ野球の世界で活かされ、プロ野球の世界から学んだものを今度はスケート界でどうにか活かせていけば、これはまた面白いと思うようになる。やっぱり、どこかで勉強していかないと。人間、勉強すること、努力することは死ぬまで必要ですからね。

広報スタッフ:他の世界にいったん出て、またスケート界に戻ろうという考えはもともとあったのですか。

黒岩:無きにしもあらずですね。また別の仕事をしようかなと思っていた時期でもあったんだけど、スケート界で、もし今まで学んできたことをどういう形であれ活かせれば、それはまたそれで良いのかなと。僕は、大学を卒業した頃からずっと思ってたのは、45歳を一つのポイントにしていたんですよ。45歳を通過する時に自分が納得いかなかったら、ここをターニングポイントにしなければいけないとずっと思っていた。それで、46歳になる2ヶ月前に会社を辞めました。

広報スタッフ:アスリートのセカンドキャリアの部分なんですが、所属していた会社があって、その会社にグループ会社があったがためにいろんな仕事が経験できたと思うのですが、黒岩さんご自身はチャレンジ精神というか、いろんな所に挑戦してみるというようなお気持ちだったのですか。

黒岩:ただ、僕は無謀に、むやみに挑戦だけではないんですよ。それだけだとわがままになる可能性があるから。でもそれ以前に、「今日はこういうことを頼むよ」と言われた時には、与えられた環境で最善を尽くすという考えを持っているんですよ。自分でどうにもできない所ってあるじゃないですか。だから、与えられた環境で最善を尽くそうと。

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