選手インタビュー

黒岩彰さん 黒岩彰さん スピードスケート 1984年サラエボ 1988年カルガリー

世界一の実力を持ちながら、オリンピックの金メダルには縁がなかった。
しかし彼は「勝者を思い切り祝福できた」と振り返る。それは負け惜しみではなく、"やるべきことはすべてやって臨んだ"という自信と誇りがあるから。目標を達成するためにできる限りのことをする。
黒岩彰の競技人生からは、そのことの重さ、尊さを感じることができる。

【唯一苦手だったスポーツで世界に近づく】

広報スタッフ:ご出身地の嬬恋という場所がら、スピードスケートと関わったのですか。

黒岩:そうですね、群馬県の嬬恋村という所なんですが、ここはもう、スケートが冬の娯楽の一部で。村の人たちがみんなで楽しむのはスケート、みたいな環境の中でスケートと出会いました。否が応でも、みんながみんなスケートをやってた、っていう場所ですね。

広報スタッフ:それでは、子どもの頃から、冬の遊びは外でのスケートだったんですね。

黒岩:そうです。スケートリンクは校庭にあったんですが、自分の家の田んぼに水を入れて、自分のリンクみたいなものを作って楽しんだりしてました。一番最初にスケートを履いた場所も憶えてるんですよ。みんなスイスイ滑ってるでしょ。それで、スケートって簡単そうで、自分も履いたらすぐ滑れるんじゃないかと思ったのに、履いた途端に身動きが取れない。みんなが滑ってるのに、1人だけ転がってるようなスケートデビューだったんですよ。確か、姉のスケートを借りて滑っていたと思うんですが、全然滑れないし、こんな面白くないものがなんでみんな楽しいんだろうと思いました。母親がね、スケート靴が高いもんだから、6年生まで履けるようにって21cmの足に24.5cmのスケートを買ってくれたんで、滑れるわけないんですよ。22.5cmのスケートに買い換えてもらった記憶もあって、それからは多少滑れたけれども、小学校6年間で女の子に勝てない唯一のスポーツはスケートだったんですよ。それで、小学校低学年の頃は冬の体育の時間がスケートで、何か理由をつけて、ストーブにあたってたりとかね(笑)。

広報スタッフ:では、スポーツは大好きだったけれど、スケートは苦手な方だったということですよね。

黒岩:苦手というか嫌いというか。ソフトボールをやれば村の大会では1番になったし、自転車乗りコンテストでは県大会で3位に入りました。でもスケートだけは面白くなかった(笑)。中学校に入って、女の子に負けるスポーツがあるのが自分にとっては不満で、女の子に勝とうと思ってスケート部に入ったんですよ。

広報スタッフ:嫌いだったスケート部に中学で入って、そこからどうだったんですか。

黒岩:目標は同級生の女の子に勝つことでしょ。で、そこで勝てて、中学校2年の時に軽井沢大会で45秒8のタイムで1位になったんですよ。中学校3年の時には、群馬県の中学校記録を作りたいなって目標を立てて、42秒8の群馬県の中学校記録を作りました。高校1年の時はインターハイ優勝の目標を立てたけれども、勝てないで5位でした。その時の40秒5というタイムが、全日本の大会に出られる資格を取れるタイムでした。高校2年の時に、500mでインターハイで優勝したのかな。3年の時には、ちょっと大きく「世界」っていう目標を持って、全日本では真駒内選抜で3位になって、浅間選抜で優勝しました。全日本スプリントで上位に入れば、その時のレークプラシッドオリンピックに出られる可能性があったんだけれども、そこで失敗しました。

広報スタッフ:そうですか、急激な成長ですね。

黒岩:小さな目標をしっかりたててきたような気がしますよね。

広報スタッフ:それでも目標が大きくなるのが早かったですね。苦手な競技だったようですが、記録的にもどんどん伸びたのは、ちゃんと監督がついてくださった影響もあったんでしょうか。

黒岩:あったでしょうね。6年間で急成長しましたからね。世界っていう言葉がね、高校3年生の時の日記帳にはすごく書かれているから、少なくとも世界をこのあたりから意識し始めたのかな。

広報スタッフ:女の子がライバルだったのが、世界を(笑)。6年で、すごいですね。記録が伸びていったということもあるのでしょうが、競技自体は好きになられたのですか。

黒岩:決して好きじゃなかったですね、やっぱり。でも、自分が立てた目標をクリアできる。で、記録が伸びていくっていうことに関しては、やはり面白かったですよね。好きじゃないんだけども、あれよあれよといううちにそのポジションにいっていて、気がついたらやめられない状況になっていたんですよ(笑)。

【トレーニングに対する探究心】

広報スタッフ:それから専修大学に入られたんですね。

黒岩:入った時に監督と話をして、「彰はスケートでどういうふうになりたいか」って言うから、「スケートをやるのであれば、僕は世界一を狙います。でなければやる必要ないです」って言って。そしたら、「世界一になる練習を考えるか」っていう話で。今まで、どこか封建的なスケートの流れがずっとあったんだけれども、トレーニングとか、まるっきり関係ないことをやり始めたんですよ。ローラースケートとか。でも大学1年の時には、高校3年の時に出した38秒12って記録がとうとう破れなかったんですよ。これが面白いんだけど、スケートの選手って上半身なんかいらないんだ、お尻がでかくて太ももが太くて、そんなスケート選手になればいいんじゃないか、腕なんか細くていいんだって考えた時期があって、大学1年の時にそれをやったんですよ。足はすごく太いけど、腕なんかヒョロヒョロ。腹筋背筋もないような体でやっていて、記録が出なかったのは体のバランスが悪いんじゃないかと思ったんです。やっぱり腕もしっかり太い腕にして、バランスの取れた体を作らないと、記録は出ないんじゃないかとなって、それから上下・左右・前後っていう身体の強化を考えたんですよ。

広報スタッフ:その辺はすべてご自分で考えてですか?

黒岩:監督と話をしながらですね。

広報スタッフ:試行錯誤をしていたということですね。

黒岩:そうそう。で、大学2年の頃からかな、ドーンと記録が出て。でも大学1年の時にも、全日本では勝ったんですよ。初めて出た世界スプリントでも6位に入ってるんです。それでも納得がいかなかった。

広報スタッフ:なるほど。自分の高校の時の記録があるからですね。

黒岩:そうですね。大学2年の時にはもう日本記録を出したんですが、その年の全日本スプリントで最高のスケーティングをしている時に転倒して肩脱臼して、練習が全然できなくて世界スプリントでは8位。でも、これは何とかこの練習に何かプラスアルファしていけば、世界で勝てるというつもりで、翌年また練習メニューを組み直して、大学3年のシーズンには世界チャンピオンになったんですよ。1983年かな。

広報スタッフ:この時代のスピードスケートの指導方法は、理論的なものはなくて、今までのものや過去の例よりも、ご自分に合ったものをそういうふうに監督と一緒に考えていくというやり方だったのですか。

黒岩:そうです。練習に100点満点の、"これをやれば絶対に強くなる"なんていうトレーニングはないと。アメリカはこうだ、ヨーロッパはこうだというメニューを引っ張ってきて、その練習をやってたのがその頃の日本だけど、同じ線路の上を行ったら、後ろから行く電車って追いついても絶対に抜けない。であれば違うレールを作らないと、追いつくことはあっても抜くことはできないと。だから、今までやってないようなトレーニングをやるべきだということで、自分で考えていったんですよね。

広報スタッフ:すごいですね。やっぱり中学校の頃からそうですけれども、ご自分でコツコツ目標をクリアしていくっていうところが、向いてらしたんですね。

黒岩:そうですね、そういうところはありますね。

広報スタッフ:小さい頃に他のスポーツも得意だったということで、他にやろうと思ったスポーツはあるんですか?

黒岩:結構ありますよ。例えば、陸上の大会があれば陸上部から手伝ってくれと言われて、出た僕が全部得点した、みたいな(笑)。砲丸投げに出てくれって言われて、郡大会で1番になったりして。スウェーデンリレーに出てくれと言われたり、野球でもピッチャーやってくれって頼まれて。やったことないのにですよ。

広報スタッフ:すごいですね! 自転車の話があったので、下半身の強さはなんとなく素養があったのかなと感じたのですが、今お聞きすると、投げる方も得意だったんですね。

黒岩:そうですね。高校時代にクラブ対抗のバレーボール大会があるんですが、バレー部に15-1でスケート部が勝ったんです。

広報スタッフ:やはり、土地柄、運動能力の高い人がスケート部に入っていたというところもあるかもしれないですね。

黒岩:あるかもしれないですね。

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