選手インタビュー

森田淳悟さん 中田久美さん 森田淳悟さん バレーボール 1968年メキシコシティ 1972年 ミュンヘン 中田久美さん バレーボール 1984年ロサンゼルス 1988年ソウル 1992年バルセロナ

【オリンピック出場までの壮絶な戦い】

広報スタッフ:森田さん、中田さんの現役時代のお話をお聞きしたいと思います。お二人ともオリンピックでメダルを取られているわけですが、オリンピックの思い出についてお話しください。

森田:思い出といえばね…大学3年の時にメキシコで銀メダルが取れて、それから4年後に金が取れたんだよ。僕はオリンピックはメキシコが初めてだったんだけれども、ミュンヘンと比較したらメキシコの場合は、「金メダルが取りたいな」という気持ちで出場して、ミュンヘンは「金メダルを取るんだ!」という状態で出場したね。取りたいな、という程度の結果は銀だったし。

中田:それでも銀ですよ!(笑)

森田:「な~」という気持ちと、「だ!」っていう気持ちはやっぱり、日頃の練習の心構えが違ってくるってことだよね。

中田:練習は相当厳しかったですか?

森田:それは厳しいよ。特にメキシコ大会が終わってからが、考えられないくらいでね…。松平さんは横田忠義と大古誠司と僕が同年代で身長もほぼ同じで、「この3人を鍛えないと日本の金メダルはない」という考えで。打つことについてはまあまあでブロックもできるんだけど、身長が大きい人っていうのは拾うことが苦手でね。だからもう徹底的にレシーブをやらされた。特に連携の中のレシーブ、これはものすごくやったね。だからみんな何回も顎の下を切ってる。

中田:レシーブをやったんですか、へぇ…。松平さんが一番怒られる瞬間っていうのは、どういうことをした時ですか?

森田:目で追うっていうことかな。目で追っちゃうんだけど、自分の頭の中っていうのはサボってなくても、指導者から見たらサボってるんだよね(笑)。それで、「お前何やってるんだ!」って言われて、何回も何回も同じようなボールを投げられるわけ。で、1本レシーブを上げて"やれやれ"と思ってると、「世界を相手に1点取ろうと思ったら、3本連続してファインプレーのレシーブをしないと1点にならない」って。3本連続して上げないと、練習が終わらない。こういうところが松平さんが名コーチだと思うところなんだけど、簡単に拾えるところに投げても意味ないでしょ。だから、取れるか取れないかっていうところに投げるわけ。

中田:微妙なところに!(笑)

森田:そうそう(笑)。1本上がったら、もう1本必死になって飛びつくでしょ。それでもう1本だっていう時に、本当にかするかどうかっていうところに投げるわけ。そうすると上がらないでしょ、また1本目から。

中田:へえ…。

森田:それを何回も何回も繰り返してフライングレシーブやって、顎を床に打ってパクっと割れるわけ。医務室のある施設で練習してましたから、「縫ってこい」って言われて縫って戻ったら、「お前まだ2本しか上がってなかったな、3本目上げろ」って練習再開。そんな感じでしたね。

中田:金メダルを取る人は普通じゃないですね(笑)。普通のことをやってたら勝てないですよね。

森田:絶対勝てないね。相手もやってるんだからね。

中田:そうですね。ミュンヘンの時は、金メダルを取れるっていう何か確信みたいなものはありました?

森田:バレーボールっていうのは、水泳とか陸上と違ってタイムじゃないよね。だからネット越しの感覚でしか測れない。あの選手のコースがこうだから、こっちにブロックを跳ぼうとかレシーブ行こうとか、そこに色んな反省材料が入って次へのプラス材料にするわけだよね。

中田:うんうん、わかります。

森田:だから、試合までは自分たちのチームのコンディショニングをうまく持っていけばいいわけであって。だからミュンヘンに入った時は、これはもう大したことはないな、決勝まで行けるなっていう確信は持ってたね。

中田:オリンピックでそういうふうには、思え…なかったですもん、私(笑)。もちろん狙いには行きましたけど、「ああ、これは大丈夫だな」っていうふうにはやっぱり思えなかった…っていうのは、ダメだったんですね、やっぱり。

森田:だからそこが、金メダルを「取るんだ」っていう気持ちで乗り込んで行った時だよね。

中田:そうですね…いいですね、金メダルもらって(笑)。

森田:ブルガリア戦が思わぬ大苦戦をしたんだけど、そのオリンピックの年の春に、ブルガリアが日本に来て7戦して、ことごとく3-0で勝ってたの。だからブルガリアはしっかり、日本の猫田勝敏(故人)のトス回しとか森田のクイックとか、データを取ってた。こっちは相手をなめてはいなかったけど、やっぱり勝っていた余裕というか軽さが苦戦の原因かな。1・2セットを取られて、松平さんが3セット目に、「お前らあと2時間コートの中に立て」と。「そしたら勝てる」と言ったんですよ。普通2セットも取られたら、指導者は「なんだおまえら!」ってすごく怒るじゃない?そういうものは全然なくて、穏やかにね、あと2時間立ってれば勝てるから大丈夫って。

中田:それはフルセットに持ち込めばっていうことですか?松平さんの中では多分、フルセットになったら絶対自分たちが勝てるっていう気持ちがあったんでしょうね。

森田:4セット目もリードされたんですよ。本当に、マークされてました、みんな。「やばい」って思ったのも確か。5セット目だって8-4で負けてたから。最後は嶋岡健治が決めたんだけど、あれは僕のレシーブなんだよ。ブロックが2枚揃ってストレートが空いてたので、そこを見てて寄ったらうまく嶋岡のところにトスが上がってね。それを嶋岡がスタンディングで後傾しながら打って、そのまま尻餅ついたんで、寝転んで喜んでるんだよ。恐らく、3-0、3-0で勝って金メダルを取ってたら、きっと面白くなかったもんね。

中田:(笑)。

森田:それでみんなに、「お前らがあんな試合やるから寝不足になった」とか、帰ってきて言われたんだけど、今回のサッカーのワールドカップでその気持ちがわかった。(笑)ああいう気持ちでみんな応援してくれたんだなと思ったね。

中田:私はオリンピックの思い出って、あまりないんですよね。それよりもオリンピックのための練習のほうが本当にキツかったんで、「オリンピックが早く来ないかな」みたいな気持ちでしたね。

森田:ああ…なるほどね。

中田:そういう気持ちは、3回ともありましたね。朝から晩まで、最高は夜中の2時ですよ、朝6時から。食事も喉を通らなくて…そういう思い出しかないですね。女子バレーは昔から練習は長いですからね…。

広報スタッフ:先ほどの男子のように、弱点ばかり徹底的に練習するとかそういうことはあったんですか?

中田:山田重雄先生(故人)はデータバレーなんですね。だから練習でも仮想チームを作る。仮想中国とか仮想ソ連って、全部男子コーチを5人入れて、女子のセッターを入れるんです。1チームのデータが書類で10数センチくらいの厚みがあるんですよ。それを全部頭に入れて、仮想チームに対しての練習をするんですね。男子相手なので、そこからセットを取ったり勝つのはすごく難しいんです。一番覚えてる言葉は「こんなに弱いチームだったら、オリンピックなんか行かないで、涼しい部屋でスイカでも食べながらオリンピックを見てる方がまだマシだ」とか言われたのを、すっごい覚えてますよ(笑)。

森田:あはははは(笑)。

中田:肉体的にももちろん疲れるんですけど、データを詰め込まなければいけなかったので頭が疲れるんです。ただやっぱり、本番になると真っ白になりそうな時があるんですが、身体が自然と動くというか反応するんですよ。そこまでトレーニングしてきたというか、バレーは間のないスポーツですから選手同士の「あ、うん」の呼吸がすごく大事で、どうしても練習を濃くやっていかないと、なかなかコンビネーションやチームワークを作るのが難しい競技ですよね。

森田:言葉で言うと、見てから動いたのでは、とてもじゃないけど間に合わない。見ながら動くっていうのは、身体で覚えてるから自然にできる。それは男子もそうだけど、自分の肉体で覚えるのが一番だよね。それから、一つの動作の中に5つも6つも瞬間的なことを考えないといけない、ということもあるよね。

中田:そうですね、いろんなことを想像しながら、また相手の動きも見なければいけないので、それをいちいち考えてるわけじゃなくて、目で映像を取った瞬間に何かを考えてるような感じなんですけど。

森田:それは、俺はセッターじゃないからわからないけれども、瞬時に10とか15とかバババババーっと考えないと間に合わないよな。

中田:それで、考えたことをアタッカーがまたその通りに、そのタイミングで入ってきてくれるということも大事なので、すごく人間関係とか意志の疎通っていうのが大事。そういうことができることによって、私が生かされる。1回、体育館で、コートに布団を敷いて寝たことがあります。仮想のチームに負けて、「お前たちはもう自分の部屋に帰る必要はない、コートで寝なさい」って言われて。それも自分のポジションの配置のところに布団を敷いてですね(笑)、一晩過ごした覚えがありますね。でも、そうやってみんなで寝ることによって、「明日はこうしてみようよ」とかいろいろコミュニケーションが取れて、それはそれで良かったんじゃないかなと思うんですけど。

森田:そうね。監督が一方的に指示したミーティングじゃなくて、選手間同士でああでもないこうでもないっていうミーティングも必要だと思うしね。僕らはね、当時日ソ戦っていう定期戦をやってて、その当時は船で行ってたのね、横浜港から。

中田:え!?

森田:津軽海峡渡って、日本海側のナホトカっていうソ連の港に着いて、今度はシベリア鉄道に18時間くらい乗ってウラジオストックに行って、そこでまた飛行機に乗って、10時間かけてモスクワに行ったりして。その時に、横浜港を出たあと台風になったことがあったんだよね。

中田:耐えられません、私(笑)。

森田:だから、ナホトカに本来2日で行くところ3日かかっちゃったので予約してあったウラジオストックまでの鉄道のチケットが使えなくなって、1つのボックスシートが6人掛けなのに、2ボックスに20人くらいで乗って18時間の旅。辛かったけど、みんな集まってそこでいろんなミーティングができた。のちのちのチームのためにはすごく、ためになった電車の旅だったね。

中田:すごい経験されてますよね…。

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